今日始めて知りました。差別用語だと言うことは知っていたけれど。
ぼくはマラドーナはキチガイだと思います。でも彼は精神障害者じゃないよね。端に意志が弱いだけだ。流されやすいにもほどある。流され続けて生きるのが精神障害ならば、すべてのギャンブラーは精神異常ということになる。
ぼくはマイケル・ジャクソンはキチガイだと思います。でも、彼も精神が弱いだけで障害者ではないよなあ・・・あれが障害者ならすべてのハリウッド俳優は障害者だと思う。実はあながち外れと言うわけでもない。
あるアメリカンジョーク。1980年代、ハリウッドでバリバリの精神科医がやめて田舎に帰り、普通の外科の仕事を始めました。みんな年収10億の仕事を放り出してどうして片田舎でお金にもならない仕事を彼が始めたのかが不思議でなりません。彼はある日、古くからの友人のその理由を聞かれて、深く溜息をついた後に語ります。
「毎日若くてきれいな子が男や女を問わずドアを叩いてくる。そして彼らは口をそろえて言うんだ『先生、ぼくは精神を病んでいます。薬を出してください』。ともかく話を聞いてみる。ところが受け答えもまともでどこにも異常がみられない。『君は一体何を病んでいると自分で思う?』ぼくは思い切って質問してみた。そしたらそのアポロンもかくやという美男子がベッドに手をつき髪の毛を撫で付けながらこう言うんだ『僕は病んでいる自分を夢見るんです。そんな自分を夢見るとそのうち自分の精神が病んでしまうに違いないと思う。だからそうならないうちに薬をもらって安心したいんです』。分かるかいビル、ぼくは毎日のようにやって来て同じようなことを言う美男美女を見飽きてしまったんだ。あんなものを見るぐらいだったら僕は田舎で腰が曲がった爺さんたちや足が膨れたばあさんたちを見ているほうがよほど<安心する>んだよ・・・どうやらぼくも病んじまったらしい。」
この30年間、恐らくハリウッドはこういう意味では変わっていないんだろうね。
しかしこの話の本当の真実は「病んでいる」と「病んでいない」の境界線は実は相当あやふやなものであり、現在のアメリカや日本のように精神状態をいちいち分析して病名をそれぞれに与えようとする社会は過去の人間社会の歴史にも稀に見る「管理社会」状態にある、ということだ。
だからこの話はブラックジョークとして「笑える」のだけれど、やっぱり日本人には難しいよね。
ちなみにイタリアには精神病院は「ありません」。これは日本人には知って欲しい事実だな。さらに言うとイタリア人はキチガイに当たる「パッツォ」を連発する。割とまともな人に対して。
そう。キチガイという言葉の本質は実は「まともとそうでないものの紙一重」に対してされる表現であり、これを差別用語とする心の狭さはやはりどうしても戦後日本における精神病院の陰惨な歴史を語らずに説明することは出来ない。
話を戻すと。
この定義、間違っていると思うよ?
戦後すぐから高々20年ぐらい前まで、「キチガイ」と認定された人間が僻地の鉄格子の向こう側にある精神病院に放り込まれ、拘束服を着せられて薬を大量に投与されると言う不幸な歴史がこの国にはありました。
だから「キチガイ」と言う言葉に悲しい思いをする人が多くいるのは分からなくもない。この言葉が差別用語に認定されてしまったのはどちらかというと「キチガイ」とされた人の親族の哀しみに配慮したものと言える。
でも、精神病院の現状は以前よりはるかにマシになっており、少なくとも「誰が見ても非人間的な扱い」を受けているところは少なくなってきている。むしろそこを職場として働く人たちにとってはきわめて人間的と呼びづらい職場であると感じるところであることこそ本人たちに面と向かっては否定できないとはいえ。
今の日本に住んでいるとなかなか理解できないことかもしれないが、日本だと精神異常とされて病院で生活している人たちも、イタリアのように皆と同じ環境で暮らしているといろんな面でこちらが学ぶことがあります。
実は彼らよりも自分のほうがよほど「パッツォ」であることを体験することが多々あるんですよ。つまり、人間の心と言うものは必ずしも礼儀作法だけに表れるものではないのですが、全員が全員それをこなせる状況だとそれが見えなくなります。ところがこうした人々の「思いやり」はむしろ形としての受け答えよりも精神的に強くこちらに思わせるものが多く、「ああ、形にこだわっていた俺ってバカだなあ。むしろ俺がキチガイだ」と思うようになるんです。これは体験しないと分からないよなあ・・・
つまり何が言いたいって、前から何度も書いているが言葉としての「キチガイ」上等。
人のことを思いやれない人間はキチガイだ。そういう意味ではぼくも多くの局面でキチガイだろう。困っている人を助けてやれない人間はキチガイだ。そう考えたら世の中なんてキチガイだらけだ。むしろそうしたキチガイこそ恥じるべきだろう。
でも、こうしたキチガイって決して「精神障害」ではないよな。端に「至らない」だけの話。
やっぱりね、この言葉がないと人の過ちを否定する言葉が貧困になると思うんですよ。人をドキッとさせて反省させる局面って、必ずあるよね。そういうときに「お前は間違っている!」なんて言葉を言っても相手を動じさせることなど決して出来ない。やはり「お前なんかただのキチガイだ!」といってやった方が効果がある局面は多い。
人には誰にもキチガイな一面がある。それを自覚するために、この言葉には復権してほしいね。「差別用語」は確かに諸刃の剣だ。しかし、目を覚まさせるにはやはり大きな効果があるのです。
自分はまともだ。
そう信じている人に疑問を持ってもらうには、強い言葉はときに必要です。
その優しさが一体誰に向いているのかがぼやけてしまってきている今。
こうした言葉を使う勇気は時として必要だと思います。
・・・あくまで、時として、ですよ?あまりぽんぽん使うと、効果ないよね。むしろ不愉快だ。
それは、否めないよね。
薬といっしょで言葉も結局さじ加減です。
ただ、毒だといってすべてを否定される言葉は、やはり「差別」されているのではないでしょうか。
差別用語は差別されている。そこに差別されているのはその言葉の歴史であり、その言葉に関わった人類の歴史でもある。
いい加減その事実に向き合う時期だと思います。