この人の本のレビューは難しい。
どちらかというと「こうだ!」という話よりも、読んでいるこちらに「変化」を求める本なので、たとえば僕が「この本はこういう本です」と説明したとしてその言葉とともにこの本に入っていったとしても、おそらく出口につくときにはその人の中での「この本はこうです」というものができあがっており、それはその人とその本の間にしか存在しえない、村上春樹の言うところの「うなぎ」なんですよね。
つまり話者は読者との対話を求めている。そして話者の目指しているところは話者には分かっており、読者はその手に導かれて出口に向かうのですが、ところが話者には読者との間にある「出口」は話者にも分かっていないという。ただ単にシリウスをめがけて航海しているがゆえに、いずれは目的地である対岸にたどり着くのですが、その間にある「うなぎ」は話者と読者の間にありながらつかみようがないものとして進む。
答えを出さないと言うこと。
ユダヤ問題に関する本は10中8,9「答えはこうだ!」というものを提示するようになっている(それどころか僕はこの本以外で結論を出さない、という選択肢を提示した本を未だ読んだことがない。そしてそれらの回答は決して僕を満足させなかった。「バカ言ってやがる(失礼)」である。たぶんその本を出した時点でその答えはそれなりだったのだろうが、いかなる論説も10年として風雪に耐えない。そういう意味でこの本の存在自体が非常に珍しい)のですが、この本はそう言ったことをを試みない。
大事なことは「答えを出さずに」関わり続けることだ、という趣旨には非常に賛同する。
この本のオビには「ユダヤ人はどうしてあれほど知性的なのか」「どうして反ユダヤ主義は無くならないのか」(手許にないから間違っているかもしれない。だが言いたいことはそれのはずだ)という、ユダヤについて「親しい友」としてその問題を考えたことがある人ならば必ず一度は深く悩んだに違いない問題が提起してある。
その結論は本に任せる。正直、やられた。
僕は高校の時に周りがほとんど全部ユダヤ人の学校に行っているので、かえってそれほど深く考えなくてもだいたい彼らがこれら二つの問題についてどのようなリアクションをとるか、と言うことは知ってしまっていた。
だがそれが僕の仲での思考を止めることになる。僕がかつてユダヤを語るとき、それはあくまでかつて「同朋」として1年過ごしたものを擁護する「気分」においてのみ行われていた。
しかし、レヴィナスという一人の偉大な心理学者(?精神分析に人ではないよなあ・・・)を「師」すなわち導き手として彼らの精神構造に「民族的に」課せられる使命、というものは説明されると「なるほどなあ・・・」と思ってしまいました。
受難。
これから罪を贖うものとしての「有責性」を自己に認めつつ、且つその罪を現在の自分が起こしていない「遅れてきたもの」としての自覚の中に生きる。
罪を犯していない人間が未来に起こす罪について「有責性」を持つ、このアナクロニズム(つまり、時系列がねじ曲がっている。未来における自分の罪の有責性を背負いつつ、且つ現在の自分が罪を負わないものと認識するのは時系列的におかしいのは分かるでしょうか。)の「受難」の思考回路は、キリスト教における受難とは意味がが違う。
イエスは「皆に替わって」その身に受難を受けるのである。それに対してユダヤ人のそれは「ユダヤ人である限りやがて私は受難する」ということだ。
統一した種族でなく、統一した言語もしゃべらない彼らを一つの民族にするものは、この「受難」について深い考察を若年層から民族全体として考える、彼らの嗜好性から来る。(もっともこの嗜好性だって、3000年前からたびたび虐殺の対象になっていなければ生まれなかったはずのものである。このタラレバに意味は全くないが)
ユダヤ教徒でなくてもユダヤ人たり得るということは、結局のところヨーロッパ史においてこの「災厄」が降ってくる役回りを彼らが「受容」していることから来る。
人間が知性的になる方向性として、「やがて自分の身に降ってくるもの」に対して「受容」を試みる、という作業は多くの哲学者に共通する思考だ。(有名なのはソクラテスですね)
これは何も哲学だけではなく、「運命」と言うよりも「受難」に対するものに対していつかやってくるものに対する「受け入れ」というものができている精神は、いやが上でも知的にならざるをえない。知的にならないとそれを「受け入れる」ことが難しいからだ。
そして災厄として見られるためにはその前に「欲望」の対象でなくてはいけない。その欲望を仕向けるものは何かと言えばそれは彼らの「知性」。この知性が全世界にユダヤ人を「欲望」させ、何か災厄が世に降りかかったときにその責任を彼らに背負わせる。
結果として、ユダヤ人が反ユダヤ人主義なるものを作り出していることになる。
で、「受難」することを「受け入れる」、それに耐えうる知性を持つことを彼らは世界に「要求」されているようなものなわけだ。
ありゃ、結局本に書いてあることある程度以上書いちゃったなあ・・・でも、この文章でこの本が何を言っているのか分かる人がいればその人は相当内田先生の文章を読みまくっているか、自分なりにユダヤに関わってそれなりに考えてきたか、どちらかだ。前者も後者もそうたくさんはいないだろう。
ちなみに自分で読み返してみて自分では納得できるけれど、本が手許にないため内容の確認ができず微妙に趣旨がずれているところがあると思う。レポートとして出したらギリギリ合格、ぐらいの内容です。僕なら「もうちょっと本を読み返してきっちり書いてきて」と注文つけます。
まあ、良いんですよ。たぶん、直したら「あ、これで読まなくてもいいんじゃん?」見たいな文章になっちゃうから。この文章読んで「あー、こんな意味不明で思わせぶりで分かった風な文章読んだら、俺も(私も)ユダヤのことを分かりたくなってしまうじゃない!」と絶叫してくれると、それがぼくの狙いです。
ユダヤ問題は未来永劫解決しない。
そこに希望の光を見いだし、対話の中に潜む「うなぎ」の言葉を聞き取る。
同じ一つのことを語るのには二人の話者が必要だ。なぜならばそれを語るのは二人の話者の間にいる「うなぎ」なんです。
つかみきれないネヴァー・エンディング・ストーリー。
うなぎの語りに、耳を澄ませよう。