心が折れそう、と言う表現。
嫌いなんだよねー。
今までこの手の「流行した」言い回しが気になったことはあまり無いのですが、この言葉、一流のアスリートの部類の人が最近よく口にするんですよね。つまり、力を持った人間が更なる自己防衛のためにこの言葉を選択していることが多い。
つまり、自分の能力の「身体性」に自分の「精神性」が追いついていっていないからこそ起こることなのであり、若手の一流のアスリートにはよく起こることだと言うのはよく分かるのですが、それを5万人の観衆の前で表明するのはどうかなあ、と思う。
分かりやすいたとえを言うと、監督に「お前はもっとできる!」といわれてなかなかうまく行かないときにこうした精神状態になるわけです。
ああ、そうか。
つまり僕がこの言葉がいやなのは、「こいつほどの人間が心が折れそうになるような状況って、かなりおかしいんじゃない?」と思う反面「この言葉で相手をけん制しようとしているな」という、スポーツとは関係ない駆け引きを裏側で感じるからなんだ。このけん制されている相手はマスコミも当然含む。
それにしても、最近テレビをつけたらクイズ番組とお笑いと報道番組とサッカーと野球以外、何も無いね。トピックスとしてこれらが売れる、と言う数値絶対主義でやっているのは分かるし、テレビとはそういうものだとも思うけれど、このまま続けていると作り手に嫌気が差してくるのは時間の問題だな。事実、お笑いはもう半年以上も前から笑えないものになってきている。
メジャーになったら面白くなくなった、と言うのは近年のお笑いの法則ですが。ハタチそこそこの人が日本中の注目を浴びたら身動き取れなくなるのは当たり前か。というか、そんなの、ベテランでも無理だよね。
石川遼や錦織圭を見ていると、「周囲の期待」は野球の年俸のように高ければ結果がついてくるようなものではないと言うことがよく分かる。
スポーツの世界は「勝つも負けるも自分の責任」なのですが、このロールモデルにみんなが(と言うかかつてのぼくが)夢中になるのはつまり、子供のころに教え込まれたこの「生き方」が、この世界では確かに息づいているからなんだよね。
そして現実の世界にそれを当てはめると1人が勝って後の999人が負ける、と言うことを時間の経過とともに知ったとき、スポーツが面白いものと思えなくなったわけだ。
しかも、その「勝った」人間がちょっとした事で「心が折れる」と言ったらみんなで同情する。悪いが、それに見合う対価はすでにもらっているのだから、その発言は無い、とも思う。ただ、「勝って当たり前、負ければ給料泥棒扱い」はもはや近年のスポーツでは当たり前のようになってきている。これは恐らく、彼らがスポーツを始めたときには想像もつかなかったことだと思う。
自分に照らし合わせてみると確かに無理だろうな、とは思うんですよ。でも「現在の」スポーツの世界は勝ち負けでしかない。(実は昔もそうだったんですよ?みんな忘れているだけです。)それがいやなら辞めるしかない。
つまり、この言葉が共感を生む理由があるとすれば、誰か一人が勝ち抜く、と言う世界に全員の心が折れそうになっている、と言う見方も出来るなあ・・・
状況としては理解できるのだが、それはまずいよね。
僕個人の提案はいつも、この「誰か一人が勝ち抜く」と言う幻想を辞めにしませんか、ということ。
日本の少子化問題を昨日のNHKで取り上げていたが、実は少子化問題を国が絶対に解決しなければならないと思っているのなら、国はとうの昔に「大学までの授業料無料化」をしているはずなんです。
日本で僕らの世代がなかなか一人以上を考えられないのは、子供の教育費が異様に高いからです。しかも、授業料がただになれば、子供は親に負い目を感じて人生の選択をすることもありません。いい事ずくめなんですよ。
でも、やらない。
これはつまり、今の時点では「必要ない」と判断しているからだ。僕よりもはるかに大きく発現できる立場の人がこの「授業料無料化」を結構昔から提言しているのに、一行にその話は進まない。35歳の時点での今年の出生率は0,86だ。
これは、分かる。僕と同世代の友達で、子供がいる奴がほとんどいない。実感が、そのまま数値だ。
結局、「自分のことは自分で責任を取る社会」と言うものは、ほとんどの人にとって幸せになることを不可能にしてしまったのだろう。韓国の出生率が2000年から2004年で1.4台から1.1台まで下がったことを考えると、今の日本で見れば出生率が1を切るのは今年あたりからなのかもしれない。
たぶん、政府としては出生率が1を切ったところで腰を動かさざるを得なくなる。そしてこれまでの傾向を見る限り内田樹さんの言うように「子供一人に500万円」とか言い出すに違いない。断言するが、その方法は機能しない。なぜならば、僕らの世代のほとんどが目指していることは「今の生活水準を落とさない」事だからだ。定額給付金もそのために使われることになる。つまり、消費には全く向かないのだ。現在の生活水準は言外の給料でどうにかカバーしており、余分なものは貯蓄に回されるからである。
子供を持つ女性を優遇する、と言う処置が取れない以上(これもありだとぼくは思うのだが、どうもいろんな方面から批判に耐えられないようだ)、国公立の全学校無料化以外、少子化に対する抜本的な手はこの国には無いだろう。
それを、どのタイミングでやるのか。しかし、やらないかもしれないそんな政策を期待して待っていると、こちらの時間はすべて消費されてしまうので、この思考はいったんここで止めないといけない。
個人の問題に戻ると。
人間は、一人では生きられない。
これを認めてしまえば、他に生き方もあるんですけどねえ・・・
いま内田樹さんの「一人で生きられないのも芸のうち」と言う本を読んでいます。(と言うか最近アガサ・クリスティー以外彼の本しか読んでいないなあ・・・もっとも彼の話は99パーセント人の話なので、あまり偏る危険がないのですが。)
僕らの世代は「一人で生きなくてはいけない」と思っている人が、ものすごくたくさんいると感じる。だから逆に,「一人で生きられない俺って,なかなか芸があるじゃん?」と思えるぐらいの人の方が観てて安心できる、という逆転現象が起こっている。
35歳の現時点での出生率が0,86だからといって、医学的にはまだまだこの数値には上がる余地は残されている。だから今の時点で断ずるのはまだ早い。
ただ、下の世代が逆に「早婚化」と言う現象を見せており(20代前半での結婚は、僕の周りにもすでに何人かいるが、これはメディアがあまり報道しないんだよね。そこに「批判する」要素もなければ、「誰が結婚しているのか」、またそれらがヤンキー婚なわけでもない、と言う事実を受け止めきっていないのが現状)、こうやって観ていると実は僕らの世代も「勝ち抜く世界観」を脱却して「他者のために生きる自分」に変身する努力をしていかないと、世代としてこの国から取り残されていくのではないだろうか。
誰のために仕事をするのか。
仕事をした、と言う実感は結局のところそこに「仕事をしてあげた」対象がいなければ得ることは出来ない。どれだけ稼いだか、と言うことは仕事の実感そのものではない。
l'un pour l'autre.
他の者たちに対する一人である自分。
ここに気がつくことが出来た人が仕事をすることの喜びを覚え、「心が折れる」と言うことを味あわないようになるのだと思います。(その他者は実は具体的なものというよりも村上春樹の言うところの「うなぎ」なのですが)
そして、残念ながら、野球の世界では「誰かのために働けている」ことが感じられなくなっているようだ。野球がチームスポーツなのは当たり前のはずなのに、もはやそれは幻影になりつつある。でも、そこに限りない競争の原理が持ち込まれている限り,楽しめないのは当然の帰結だ。その世界観は完全に二律背反に陥っている。
心が折れそうだ、と感じたならば、その仕事は誰のためかを考えるべきだ。
それが自分のためならば、その心は今折れなくても、いつか、きっと、折れる。