まだ買っていない人で、どうしてもすぐに手に入れたい場合、大学のマイナーな学部の生協の購買部に以外と残っていることがありますから、暇だったら訪ねてみるのも良いかもね。
ほっとけば2週間もせずに出るし、とりあえず読んだ限り、彼の他の作品を読んだことがないのだったらやっぱり「海辺のカフカ」の方が読みやすいね。
エルサレム賞での演説の影響は大きかったようだ。今現在の彼の心境でどのような文章が紡ぎ出されるのかに興味を持った人は多いと思うが、彼が小説で言っていることは最初の頃からちっとも変わっていないので、前の作品を読んでも充分にそれは伝わると思う。
本人も言っていたが、小説家というのは嘘つきだ。
なぜかというと嘘でなければエンターテインメントとして楽しむことができないからである。
そういう意味では司馬遼太郎だって嘘つきに違いない。彼は自分の作品の中で、自分が小説を書くときに読者に感じて欲しいことと情報の羅列は密接に関わっているが、その情報自体には彼が書きたいことはない、と言うことをきっぱりと言っている。
早い話が技法的には「梟の城」がその青臭さも含めて彼的に一番伝えたいことを伝えているのだが、細かい歴史的背景の情報がないと結局のところその虚構には言って行きづらい、ということを自覚して書いているのですね。彼は別に歴史そのものを書きたかったのではなくて、その中にある人間のドラマを書きたかったのだ。
村上春樹の作品は「そうそう、そんな時代だったよね」とこっちが言いたくなる、しかしよく考えると微妙に欠落した情報(1984年当時においてタクシーの運転手がクラウン・ロイヤルサルーンを自分の車として選択する、と言うのが「あり得る」ことでありながらも「無いよね、それ」という無意識の言葉を叫ばせる時点でこの物語の虚構の入り口はすでに突破している。あの時代ならマークⅡだろう。なぜこの名前が選択されないかというと、現行の車種として存在が希薄であるからであり、ロイヤルサルーンの方が読み手が類推しやすい車名だからだろうね。実際のロイヤルサルーンが今と25年前でどれぐらい違うかなど、実はほとんどの読み手は想像がつかないはずである)を満載させつつ進行する。
しかしこれはあくまで技法の問題であり、しかし本題の方はいつも同じことを書いているので、いつも彼の作品を読む人は「そうだよね-、こういう人なんだよね村上春樹って」と納得するために読んでいる節があり、だからであろうか、今回の「誰もが読む前から68万部」という事態は、どちらかというと読むためと言うよりも社会現象だという点において世界の中心出会いを叫ぶ、で起きたいわゆるセカチュウ現象と重なる部分が強い。
いったい何人の人が最後まで読むかが疑問だ。まだ最後まで読んでいない僕が言うのもあれなのだけど。
それにしても、演説の言葉を拝借するのならば、相変わらず社会のシステムは「壁」であり、主人公たちは「卵」そのものだ。文中の言葉が演説とひどく重なって見えるのは、この文を書いているときに授賞式に呼ばれちゃったからなのだろうね。
いつもより肩に力が入って見えるのは気のせいか。
まあ、こう言うのも嫌いではない。彼も人間だなあ、と言うことが分かってそういう意味では非常におもしろい。
さっさと読んでネタをばらさないような感想を書こう。
村上春樹を読んでいると、世界と自分がより深いレベルで同期するようになる。
こういう「能動的」な力が自分の内側にわき出ると言う意味では、やっぱり希有な作家だと思います。