ウェイリー訳の源氏。
読み始めたら一気に読んでしまうので、下手すると各章ほとんど振り返ることなく最後までまず読んでしまうかもしれません。
とりあえずいま「空蝉」で止まっているので、(と言っても中断ではなくたまたま今日一日だけ読まなかっただけなのですが)、「桐壺」を少し振り返ってみようと思います。
原作との最大の違いは何かというと、ウェイリー訳では桐壺の「更衣」という役がいかに下っ端であるかをかなり強調して説明していることでしょう。
もちろん原作でも充分に桐壺の更衣が天皇との間を様々な邪魔をされる事は分かるのですが、桐壺の母親が彼女が亡くなってから光の君(つまり光源氏)を手元に置いていたとき、その子供を天皇が育てよう、と言う次第になるのですが(それにより源氏の姓を光は賜る)、その母親が娘である桐壺を育てるときに、「殿上人」として十分な資質があるように育てたと言う下りが「ほとんどその可能性が無かった」事とともに克明に書いており、この二人(桐壺と天皇)が本来結ばれるべきではなかった、と言うことがはっきりと言われています。
ここ、大事だと思うんですよね。
桐壺が「身分違いの恋」をしていた、と言う意識が読者にあると無いとでは、天皇のうちに起こる「心残り」が光を源氏姓にしてまで手元に置きたかった、と言うことに説得力が全然違うのです。
後に桐壺とそっくりである藤壺の宮が来たときに彼女は相応のくらいを持っており、天皇の愛人として(そう、ウェイリーは弘徽殿の女御が「正妻」であるとはっきり書きます。)ふさわしいと言う「断絶」を、現代の僕らが味わうのは難しいと思うのです。
ちなみにこの章で早くも光は元服し、14歳にして18歳の葵と結婚する事になるのですが、葵の「美しさ」が近寄りがたいものとさせた、と言うことを彼の訳では強く感じます。
かくして光は恋を知らぬ間に、左大臣家の葵と結婚するわけですが。
うーん、こうやって書き出してみるといわゆる源氏の解説書と結局同じ事を書くことになるのかなあ・・・ただ、要点をこうやって書き出す上に置いて、ウェイリーの訳を読んでいるとこちらの頭の中ですごくシンプルにお互いの関係とその感情が描き出せるんですよね。
あと、桐壺と天皇の恋が「身分違いの恋」であることを、文を読んだだけではっきりと感じることができたのはウェイリーの訳だけでした。他だとそうであることは認識していても、その意味を痛切に感じながら読むことは難しい。
「桐壺」は「身分違いの恋」と「光源氏の誕生」のお話。
心理描写が精神分析的タッチで描かれる、と言うことはすべての章に通じていることですが、これがウェイリーの訳の最大の特徴であることはこれからもしつこく繰り返して話そうと思っています。
・・・やっぱり、横に本を置いて引用しながら書かないとダメだなあ・・・
ここも後で書き直すかもしれません。
とりあえず今日は力尽きたのでこのままアップします。