ある雨の夜の4人の貴公子の会話。
これまで谷崎訳、原文、橋本治編で何度も読み通している巻なのですが、ウェイリーの訳が一番「ぐっと」きましたね。
一番違うのは左馬頭の思い出語りだと思う。他の人達の訳だと彼が一人でギャアギャア騒いでいて、光はいかにもそれがうざいとばかりに眠り込む、と言う印象が強かったのですが、ウェイリー版では彼の話はそれはそれで納得がいく話に仕上がっています。他の二人の話も遙かに飲み込みやすかったです。
左馬頭の、嫉妬を焼かれるのがいやだからと言ってしばらく会わないうちに死んでしまった女の話。
もう一人、ちょっと良いなと思っていたのが、ある日他の貴公子に先を越された際のやりとりに、女の気の多さに幻滅して通うのをやめてしまった話。
頭中将は夕顔のところに「何となく行かなくなったうちに」会えなくなってしまい(実は彼女は頭中将の正妻が怖かった、と言う下りがあるのですが彼はそれを知らない)、今では所在が分からなくなっていること。
式部丞のあたまでっかちで色気もなんもあったものではない、昼間からニンニクのにおいを漂わせているからと会うことすらこちらからまっぴらな女の話。
この4つの話は、今までの訳では相当苦労しないと頭に残らなかったのですが、今こうやって思い出しながら書き出してみても何とか書き出せるあたり(むしろこの話が起点となり、後の女性達とこれらの話が絡み合うことにより「人の経験と光による人の思いの繰り返し」を僕らは思い知らされることになる)、訳し方がうまいな、と感心せざるを得ない。
ちなみにこの章において女性が大まかにおいて「3つの位」に分けられる、と言う結論が述べられ、光は「下の世界にいるのに実は上の位のもの」「中の位であるが打ち解ければいろいろと話ができそうなもの」「手に入れがたいと思われるもの」など様々なアイデアを頭の中に入れられて、実際に自分がある女性達との関係を「あの雨の夜の会話」にまで戻って見極めようとするのです。
ちなみに光はこの章において千載一遇の機会におき、かねてから慕い続けた藤壺と結ばれます。これが後に「永遠の災厄」を呼んでしまうことを知らずに・・・
ちなみになぜ4人の会話が彼の訳によってよりよく頭に残ったかというと、やはり言い回しがロマンティックでありかつ情景描写が「かっこいい」のです。
どうかっこいいかというと、たとえば左馬頭による、気の多い女を色男が笛の音で来訪を知らせるシーンなど、中世の騎士がお姫様との邂逅を遂げるための呪いを解くがごとき絵がそこに描かれており、左馬将にはわるいけれど、この女性は必ずしも気が多かったとは言えないのではないかと思わせて、でも彼に同情させると言う、原作でも「なしえなかった」絵がそこに現れており、その方が劇的効果としては上(彼が横恋慕だったという可能性は原作においても捨てきれない)なのです。
今現在「紅葉賀」を読んでおります。「末摘花」まで読んで初めて「帚木」の文学的しかけを理解した。
ちなみに苦労しなくても、いやでもできます。何回も「あの夜の雨の会話」と出てきて、読者はそこに戻らないと光の「深層心理」を楽しめない。楽しまなくても良いはずなのですが、読んでいると自然と「あー、あの会話か」と思い出せるようにできている。この辺、ウェイリーの描き方がダイレクトであることがその効果を深めているのだろう。男と女の関係に思いをはせるとき、その景色は気だるいものだ。だから「雨の日」と言うだけでも「ああ、物憂い」と思える。これはおそらく世界共通の感性なのだろう。理解し得る、と言う範囲において。
ヴァージニア・ウルフだったっけ?ウェイリー源氏を読むことによって感性を磨かれたと言っていたのは・・・多分現代の日本人がこのウェイリー源氏を読んでも、すさまじく感性が研ぎ澄まされるようになると思う。部屋の中にいながら、世界は突如、色を帯びたものとして現出する。それほどの力を彼の訳は持っている。
少なくとも僕は、彼の訳を読むまでに、帚木の中に「館を包む雨の音」に聞き入ることはなかった。うつろに声の響くにまどろみの中、屋根の上にやむことなく降りしきる雨の音・・・この音がすでに、これから会う女たちへの予感を誘っている。
・・・どうして気がつけなかったのだろうね?他の訳にも書いてあるのに。
この男4人の語らいは、雨の中でなければいけなかったのだ。ただ単に、することがないからと言うだけではなく、この話は「雨の中に語られないといけない会話」だったのだ。
なぜ、僕はそれに気がつかなかったのだろう。そして、それに気がついたことがどうしてこんなにうれしいのだろうか。
ある日、雨模様が空を立ちこめたときに、ぼくの頭の中にあの雨の日の4人の会話が去来する。
紫(式部です。念のため。ウェイリー版を読んでいると、式部、と言うのが役職に過ぎない、名前ではないことを強く感じる。それ故に、物語においてもっとも愛されるものの名を「紫」とした事の意味は、奈落のように深い事を読者は本来思いしれるはずなのだ。道長は光ではなかった。光とはいかにあるべきか。紫の執念は死ぬまでそれを追い求めていたのだろう)が、読者に求めた効果はそれほど暗示の強いものであり、帚木がこうした形で「物語の核として」思い出されない訳はダメな訳ですね。
おそらく時間が経つにつれて、この会話を何度も読み返してはより精密な絵を自分の中に描けるように努力しようとする自分を予感する。
男とは、どうあるべきだろう?男が求める女とは、どういうものであるべきだろう?
1000年の時代を超えて、紫は僕らに話しかけてくる。
それを感じさせてくれるウェイリーに、感謝。
僕の感性は眠っていた。そう思わずには、いられない。