これ、いかんでしょう。ダメですよ。まったく。
ルターが宗教改革を始めた理由の一つに「お布施をしたものが天国に行けると言う考え方はダメ」というのがあった。
確かに宗教にはお金がかかる。お寺を支えるのは檀家だ。檀家がお金を払ってくれないとお寺は経営が成り立たない。
勘違いしてはいけないのは、ルターだってお金をもらってはいけないとは言ってない。お布施はありがたい。だがそれによっていける天国のレベルが違うというのは納得がいかない。それだけの話。それじゃあ金持ちの方がより天国の神の近くに上れるだって?バカなことを言わないでくれよ、と言うことだ。
そもそも「葬儀業」と言うのがいかがわしいことこの上ないのだが、何せ無宗教であることにこの上ない誇りを持っている人がたくさん居るこの国において、それでも葬儀は上げたいと言うのだから困ったもんである。
悪いが葬式は宗教における最大にして最重要の儀式の一つだ。これを上げて欲しいというのに自分は無宗教ですというのは本当によく分からない。無神論者ならば霊の存在も信じないはずで、人が死んだときにどの様な「処理」をしようがそこに何か問題が出るはずもないのだが・・・世間体を気にすると言うのも分からなくもないが、そこで神様仏様にすがってしまうのは果たして無宗教と言えるのだろうか?単なる不信心者ではないのかね?
どうしても無神論者だと言い張るのならば、自分が死んだら自分の死体は灰にして海に帰せとでも言い残すべきだな。それですら宗教的な行為と言える。「帰す」という行為はそれそのものが宗教行為だ。
・・・まあ、言い始めたら無神論者はそもそも自然のうちに死ぬこと自体許されない事になっちゃうので(動物に食べられるために身を投げるのも宗教行為だからねえ・・・だから無神論を主張する人って、最終的にどこかで自殺するんですよ。つまり自分の死をコントロールする他者を一切認めない、だから自分の命は自分で絶つ、と言う論法。理論的には正しいんですけど、そう考えると無神論ってのは残念な「宗教」だな。つまり、自分の命をコントロールしている自分は神だと主張する訳だから。だから「神は死んだ」訳です。ニーチェはダブルバインドですねえ・・・実は気は狂ってなかったのかもな。)、自殺するのがムリ、という人はすべて無神論者とは言い難いんですよ。
素直にお寺や教会にお金を入れたくない、と言えばそれが答えなんだよな、実は。
そこにつけ込んで大手の「葬儀屋」なる物が林立し、そのうちの一つをイオンがやっているんだねえ・・・そこで出てきた「お布施定額制」だな。
これはもう、仏教に対する最大限の侮辱だな。これは言ってみれば「無縁仏には上げる葬式もないですハイ」と真顔で言っているのと同じであり、これを受け入れるような僧侶は、もはや進行そのものを失ってしまっていると断言できる。
寺としてはそうした制度に賛成する坊主を全員ネット上に名前を挙げた上破門に処すべきだと思いますね。ほかになりたい人なんて仏教大学に掃いて捨てるほど居るのですから。
まあ、これは多くの日本の人も悪いよね。自分は無宗教ですと言っておきながら、葬式は上げてもらわないと困るというのだから・・・宗教から逃れても、死から逃れる事は出来ないのだけれど。そしてその葬式を上げるお寺の人達も、檀家のお布施によって、多くは細々と生きているのだけれど。
そうした諸々が面倒くさいから、いっそのこと定額制のお布施、ねえ・・・ここまでくると、新興宗教ですよね、一種の。いッそのこと、「葬儀屋」という宗派を唱えたら、いかが?きっと多くの人がそれを受け入れられなくなることだろうよ。
かといって葬儀屋はやっぱり宗教とは切っても切り離せないんだ。ついにその「嘘」に対して宗教側が激しく反発する因子が出てきてしまったね。今までだって文句はいろいろあっただろうけれど。
葬儀屋って言ってみればお寺のコンビニみたいなもんだね。
見た目は一瞬リーズナブルなのだけど、実は結果的にコストはより多くかかってしまう。何より人のつながりを僕らは失っていく。それは立派な財産なのに。
そういう「見えない財産」を気がつかないうちにどんどん失っている。そういう時代なんだねえ・・・「消えたくなる人」が増えるのも、自明の理だよね。
お寺さんはもっと葬儀屋とがんがんケンカすべきですよ。そしてもっと楽しく人が来られる寺も作るべき。
可能性はいくらでもあると思うんですけどね。
間違ってもお寺さんが「お布施定額」に同意しちゃあいけません。そりゃあ自己存在否定ですよ。