とっくの昔に読み終えたんですけど、すぐに感想が書けませんでした。なぜか。
結局の所、マネジメントと言う概念が、芸術と両極端に位置しているからなんですよね。
ぼくはまず「もしドラ」を読んでみて、その作者が東京芸大建築科卒の人であることを知り、これはまずこの本を書くきっかけの一つとなった「マネジメント」を読み終えてみないと作者の言っていることがよく分からないだろうという予測の元に読み始めました。
いやね。これがね。僕ら芸術やっている人達が絶対に思いつかない事「しか」書いてないんですよ。
で、読んでいる間「すげー」「ああ、それがうまく行かなかった理由か」とか納得しつつも、何か違和感を感じつつ最後まで読み終えたわけです。で、それから2週間。この本について何を語るべきかを考えつつも、そのまま書いてしまうと否定的なことを羅列して終わりになってしまうなあ、と思っていたのです。
今、Gosickと言う題の桜庭一樹さんが書いた小説に嵌ってまして。わずか3日で3冊読んでしまったのですが(ぼくにしては速い方。こういう小説のありがたいところは1日に一冊、あるいはそれ以上読めてしまう所かも知れない)、その第三巻においてこれまた作家の榎本正樹さんが、主人公のヴィクトリカと一弥について「ビルドゥングス・ストーリーとアンチ・ビルドゥングス・ストーリーの交錯」という言い表し方をしてまして「あ、これだ」と思い至ったわけです。
一弥というキャラクターは立身出世をしようと努力するタイプなのに対し、ヴィクトリカというキャラクターは世の中に対して全力で背を向けて生きていこうとするタイプ。
分かりますね。
マネジメントで表されている世界が前者、芸術の世界が後者なんですよ。
マネジメントに書かれていることは芸術家は一秒たりとも考えません。なぜなら時間を区切って物事を運ぶと芸術は100パーセント間違いなく「良くならない」のです。断言します。絶対に良くなりません。良くなると言っている人は嘘をついてます。基本的に同じ事をマニエリスムで繰り返しているだけなのです。それはエンターテイナーではあっても芸術家ではないのです。締め切りに終われている漫画家と一緒です。最近は連載を落とす作家はゼロに等しいですが、その代わり決して連載中にクオリティーが上がりません。それは「バカ」を許されていないからですよね?
しかし。だからこそ。読むべきなんですよ。芸術やる人は。
僕らが大学にいた頃、ソニーの社長だったか専務だったか忘れましたが東京芸大の卒業生で偉い人が来られまして、ぼくはその講演を聴きに行かなかったのですが、聞きに行ったぼくの友達が「君たちが通っている学校は就職浪人養成所である」と言い放ったのは伝説ですが(後にも先にもあれほど不毛な講演はなかったと思う。お互いにとって利益は全く無かったと言って良い)、あの頃ってマネジメントのエッセンシャル版って出てなかったんですよね。
今ならこう言えると思います。「今君たちが決してここで学ぶことが出来ない事がこのマネジメントに書いてある」と。
芸術やっていると絶対に考えない事「だけ」がそこに書いてあると言って良い。そして恐らくそれは年をとればとるほどそうなる。自分の中に世界を取り入れ、咀嚼し、消化し、再構築すると言う作業の中に、この「マネジメント」の中に書かれていることは一切ない。つまり、何かを「創作する」という行為において、必要なものは「マネジメントに何も書かれてない」のです。
だけど、世の中の多くが芸術をやっている人に要求することが、この「マネジメント」に書かれている。
これを読んでも創作の質は一ミリも向上しない。ただ、みんなが自分に何を要求しているかと言うことがはっきりと認識できる。
ちなみに、マネジメントが勧めるとおりにエンターテインメントを日本において遂行した究極の形がAKBだと言って良いのでしょうね。
ぼくの知る限りあの子達個々人はそれぞれいろんな能力を持っているのですが、(ハハ。一人東京音大ピアノ科の生徒がいるよ。世間の噂と違って結構手間暇かかっているよ)それよりも「どの様な成果がそこに望まれるか」と言うことが一番に考えられるため、恐らく数年後にはメンバーの生きていく方向のズレが顕在化するのだと思う。しかし、確かに現時点において「成果」を基準に考えてこれほど成功した例というのも世界的に見てもまあ、ないのでしょうね。
それについての是非はともかく。
芸術家にとって時々訳の分からない言葉が世の中に飛び交っていると思ったら(たとえば真摯さが足りないだの誠意がないだの。凄く効果的にこっちの精神を傷つける割りには喋っている方はその喋ったこと自体を忘れているような言葉の数々ですよ。マネジメントってのは斜め読みされて他人には渡されず人をまとめる道具として使われているのがほとんどですから)、それらは全てマネジメントに書いてあると思って良いですね。
これが経済の世界の「聖書」みたいになっていると言う話を聞きました。それは、辞めた方が良いと断言します。たとえば大学において「成果主義」を打ち出すと言って、「ではそもそも具体的に数値化できる目標は何か」って議論が15年ぐらい前にはやりましたけど、意味ないことは分かりますよね?
だって、誰の能力が「優れているか」を数値化出来るようにしたら、センター試験のように試験対策が生まれるからに決まっているじゃないですか。聞きたいですよ。センター試験の勉強で何を学んだか。
ぼくははっきり言えますね。テストはゲームです。以上。深く考えたほうが負けなんですよ。
でも、本当の勉強は深く考えないといけないんです。
それこそ野球の投手のボールのスピードが何キロ、とか言っているのと同じで、本質は「打たれない」もしくは「打たせて取る」事が出来ればいいのであって、何キロスピードが出ているかなんてことを競いたいのなら、打撃マシンをマウンドにおいて打撃を競えば良いんですよ。違うでしょ?そんなの野球じゃない。
そう言う意味では芸術はどうしてもスポーツと似てくるところがありますね。それでもスポーツは数値化出来る。芸術は「何一つ数値化出来ない」。出来るのは「誰がどれだけ稼いでいるか」だけであり、それは芸術の本質と一ミリも符合しない。
だからこそ、芸術やる人はマネジメント読むべきなんですよ。
読めば「そうか、だから話がかみ合わなかったんだ」という話の連続です。読んでも何も解決しません。だが、納得は出来るようになります。
これがぼくが「もしドラ」の話で「これを読めばとりあえず納得して死ねる云々」と言ってた事の説明ですね。
別に死ぬ必要はありません。
ただ、モディリアーニはマネジメントに会っていれば自殺はしなかったと思います。ゴッホも然り。死んだから価値が上がったなんていう人はアホですね。作品数が多いと価値が下がるというのは、ピカソのような落書きの数々があまりに膨大な時に限ります。精魂込めて書いた作品は敬意を持って扱われると言う事実はモネが端的に表しています。最晩年の視力を失ってからも書き続けた真っ黒なキャンバスは異様ですが、それがモネの価値を下げることは決して無いのです。
もしドラの岩崎さんが、あの本を通して伝えた勝った事って何となく分かるんですよね。つまり「死ぬな、生きろ」と言っているんですよ。どっちにしたって「芸術家としては」一緒なんだから、「人間としても」生きた方が絶対得だぜ!ってね。
実際、マネジメントを読むと妙に元気になります。
そもそも芸術家の人生がアンチ・ビルドゥングス・ストーリーそのものである、と言う認識がそこには絶対必要ですが。これは言語化されなくても全ての芸術をしている人間の心の中にある事ですよね。
さながらGosickにおいてヴィクトリカと一弥の人生が交錯するように、芸術をやっている人間がマネジメントを読むと、自分の立ち位置がものすごくはっきりと浮かび上がります。
僕らはみんなどこかヴィクトリカです。そしてそのこと自体が悪いわけではないのです。
悪いが60を超えて感覚的に全てが分かった人がうまく言語化できていないものを(彼は結局あんな言い方をしたかった訳ではなかったのだろうな、と今になっては思います)、20そこそこの人間に突きつけたとして答えられたわけがない。
少なくとも僕らの人生は交錯しなかった。その言葉は僕らの心に響かなかったからだ。(それは彼も望まなかったことであることは言うまでもない)
だが、そこに提起された問題としては残ってしまった。そして今頃になって答えはそこにあった。
それがマネジメントでしょう。彼が言いたかったことはつまりビルドゥングス・ストーリーであり、僕らが目指していたものはしかし、全力でアンチ・ビルドゥングス・ストーリーであった。
いまにして思う。講演しに来てくれたのは嬉しかったが、これぐらいの言語化は欲しかった。(ムリなのは分かってます。マネジメント自体1時間の講演で30ページも語ることが出来ない本ですから。でも、「何がマネジメントされるべきか」という議論は出来たと思う。つまり、そもそも彼が講演に向いてなかったのだろう。もしくは思いが強すぎたのか。いずれにせよ、不幸なマッチングであったのは否みようもない。それほどの伝説である。)
あのときの卒業生で、未だに彼の言葉にわだかまりを持っている人は多いだろう。もしくは悔悟かも知れない。それらは全て必要のないものだ。喋っていた彼も、それをどう言語化して良いか相当迷ったはずで、結果的に彼が喋った言葉を良くも悪くもぼくは自分の人生の半分以上に渡って覚えている。しかも恐らく彼が望まなかった形で。
最終的にはもちろん僕らもどこかでビルドゥングズ・ストーリーと交錯したい。
いや、本当はしているのだけど、マネジメントがその交錯に、きっと気がつかせてくれるでしょう。
そこに意味があるのか?それは自分で確かめるしかないですね。ただ、自分の目の前を通り過ぎる景色が無味乾燥なものでは無いことを「知る」ために、どうしても必要な本であるのは間違いないと思います。(これは既に知っているとされていたはずのものを新たに「知る」行為であり、精神的には間違いなくこれこそが「イノヴェーション」なのです)
僕らはややもすると楽譜のなかだけに生きてしまうから。そしてそれ自体は間違っていない。
「何が間違っているか」ではなくて、「何が僕らを世界に生かすだろうか。」
それは「愛」という言葉でしか表現できないものですね。
Gosickにおいて、ヴィクトリカは泣きながら言うのです。私は誰も愛した事が無い訳ではない、と。
それがつまり、世界との「交錯」を表している。
桜庭さんがどう意識しているのかは知らないですが、「社会」と社会を拒絶する「個」に生まれたひずみをテーマにする以上、語られる話には類似点が出てくるんでしょうね。
社会を拒絶するからと言って誰も愛した事が無いわけではない。
この点で論破されると芸術家は死ぬしかないので、ここはしっかり保っていた方が良いと思います。
だからビートルズもパウロも同じこと言っているんですよね。大事なものは、愛である、と。よく、アガペーとかエロスとか、分類された言葉になっちゃってますけど、本質的にそれらは表裏一体である。
一方だけ強調してみると片方が見えなくなる。人間であるが以上、そこには常に関連性が存在する。
それを認識した上で、区別して扱うのであって、最初から二つのものとして認識しようとすると必ずそこに齟齬が生まれる。
話がやたら大きくなった気もしますが、この二つが扱っている話は共におおざっぱに捉えると「愛」についてなので、「愛とはなんぞや」とか思っている人は、是非読んでみると良いと思います。
著作としては前者は「ああ、俺って愛がないな」とたたきのめされ、後者は「ああ、でも愛したことはあるんだよ」と言い切れちゃう。
どちらも必要な時間ですよね。それにしてもGosick、良い意味で完全に予想の斜め上を言ってくれた作品でした。アニメなどで偏見が多い作品ですが、もっと読まれて良い作品だと思います。(偏見持ってた俺が言うなよ、と言う話でもあるか)
少なくとも今年の本屋大賞を読む時間がある人は読んでみるべきです。
それは自信もって言えますね。
どうしちゃったんですかね、本屋大賞。今年は特におかしいです。選考基準がキテレツ極まりないですよね。
売れた本の数字が成果、ですよね。ほら、そこに芸術があるとは限らない。
あれ読んで感動した人がいるというのなら、会ってみたいですね。相当ぼくと意見が食い違って面白いと思います。
もしくは死ぬほど退屈するかも知れません。あ、それって確かに、寂しいネ。(Gosickの3巻を読めば、なに言っているのか分かります)