そもそもフィギュアというスポーツがビルドゥングス・ストーリーなのか、アンチ・ビルドゥングス・ストーリーなのかは非常に難しいところだ。
芸術は言うまでもなくアンチ・ビルドゥングス・ストーリーである。ここを否定しようとする人は、稀にお金に困らないことはあっても、「自己満足出来る」ものを作る事が出来る人はほとんどいない。(本当は一生出来ないんだけどね。それでも他人は満足させられるものだ。)
そもそも自己満足を否定する人ってのは世の中になんでまあこう多いのかと思う。自分が障害満足出来るようなものを作る事が出来る人は稀である。
実は自己満足を突き詰めるとそれはほとんど地獄なのだ。なぜならその日に満足出来たとしても、その満足した自分を土台にして満足しない自分というものは必ず生まれてしまう。同じものを作り続けて自己満足に浸れる人など実際の所そうはいない。むしろ同じものを作り続ける事の不自由さに反吐が出るようになり、それはもはや満足の良くものでは無くなる。
故に、自己満足を否定する人は他人を満足させることも難しい。それがそもそもの芸術の原点である。
最近よく聞く言葉に「顧客のことを考えた音楽」というものがあるが、愚かにも程がある。お客の内の大多数は、たとえそれがクラシックであったとしても、いやむしろクラシックであるからこそ、そこに新たなイノベーションを欲する。
同じ音を奏で続けるCDは、人間を鬱に追い込む。いや、言い過ぎか。ぼくは同じものばかり聞くのはまっぴら御免だ。これなら良いだろう。つまり生の演奏はどうやっても時間が不可逆であり今日は今日で明日に今日はやってこないからこそ必ず何かしら違うように感じるものだ。
だが、それだけでは足りない。やっぱり、演奏家は顧客の予想を革新的な方向に超えないといけない。つまり、予想通りの演奏だけは、しちゃいけないんですよ。予想通りだったら聞かないでも良いじゃないですか。そう、もう聞きたいと思わなくなってしまう。
なんの話してたんだっけ。そう、自己満足。
なんで自己満足が出来るかというと、新しい自分に出会えるからだ。
だが、自分が新しい自分に出会えたとしても、それは他人にとってなんにも成らないではないかと言う発言は「そんなの当たり前だろう」と返すしかないものだ。しかも、この新しい自分という奴は会おうと思えば少しずつなら毎日会えるようになって居るものである。
人はそれを積み重ねという。なんで積み重なるかというと、少しずつ新しい事が増えていくからである。毎日毎日、薄皮をはぐように新しい自分が積み重なっていく。(毎日同じ事を続けてて、新しい事がなにも見つからないのは何かが間違っている。ぼくで言えばぞうきんがけをしないような毎日だな)
これがアンチ・ビルドゥングス・ストーリーの正体だ。ぶっちゃけ、社会と関わり合いにならずともどこまでも積み重なっていく。傍から見ると引きこもりかニートにしか見えないと言う話もある。
そもそも、ニートってなんだったっけ?最近日本で使われているニートってなんだか凄い人の集団みたいになってしまっていて本来の意味を完全に逸脱しているように見えなくもない。
なぜか。
そりゃ芸術家とニートが紙一重だからに決まっている。違いがあるとすれば「自分がやっていることを面白いと思いながらやっているか否か。そしてそれが継続しているか否か。」だけだと思う。サッカー選手なんてニートと本当に紙一重だよね。だから芸術家っぽい。
で、話を戻すと、フィギュアはどちらに入るだろう、というと、どっちなんだろうねえ…
ビルドゥングス・ストーリーってのはつまり、昔ながらの言い方で言うと「立身出世物語」という奴なのですが、フィギュアの選手を見ていると、どうにもそれで身を立てる、と言う話にも見えないんだよね。
いや、例の韓国の選手は既に8億円も手に入れたらしいのですが、それって別にスポーツそのもので手に入れたものじゃないですから。つまり次に続くことが出来る人はいないのです。
フィギュアというものをスポンサーとかテレビとかショウアップとか、そうした側面を完全に取り除いて見てみると。
描いている世界観は自己満足の極地であり、それにみなが感動していると言う点においては明らかにアンチ・ビルドゥングス・ストーリーの成功物語なのですが(なぜ立身出世、と言う言葉を使わないかというと、アンチ・ビルドゥングスは別に立身出世を否定しているのではなく、「関わりがない」のです。アンチ、ッてのはつまり「反対」という意味であって、否定ではないですから。アンチ巨人が巨人を否定しているので、最近勘違いしがちです。最近のアンチ巨人は正しくは「ノーモア・巨人ですね。)、テレビの様子を見ているとどうにかしてそれをお金と結びつけることによってビルドゥングス・ストーリーに仕立て上げようとしているのかなあ、と思うのです。
彼らは本当に交錯しているのでしょうか?浅田など見ているとむしろ反発している、という感じもします。と言うか、全く良い影響がないですね。
何が言いたいかというと。
フィギュアスケートの世界があまりにも顧客のことを考えすぎているんじゃないのか、ということ。
彼らはアイドルグループではないのですから、自分たちの世界をそこに堂々と出すことだけを考えるべきではないのか。
で、話はタイトルに戻るんですよ。答えはないんですけどね。
正直、今回の大会、全く見なかったし、結果は予想外に嬉しいことでしたが、単純に芸術としてこちらが楽しめる条件が整っていない(誰が最も優れているかを指摘する権利が誰にあるかって言うと、それが観客なのは言うまでもないのだが、観客の目とジャッジの目がここまで違うと楽しめないのは当たり前ですね。純粋な観客としては「私はジャッジに人間としての感性を否定された!」と思っちゃうわけだ。更に言うと勝ち負けだけを判定している人なんて、ほとんどいないと言って良い。いずれにせよそこに違和感がざらついて残るのならばそれは芸術としては欠落である。芸術は本来、むしろそのざらついた部分を洗い流すものである。)ので、見ると凄く気分が悪くなる事も分かっていたことだし、見なかったことをちっとも残念に思っていない自分がいるのは間違いない。
つまり、このままだとフィギュアの存在の輪郭そのものが消滅するんだろうな、と。むしろ昔みたいにルーチンを取り入れた方が良いんじゃないでしょうか?そもそもフィギュアってルーチンのことを指していたのですから…
ありとあらゆるマイナースポーツが似たような問題を抱えているのでしょうけどね。
そもそもアマチュア、と言う言葉は「~を愛する人」という意味であり、そこが一番大事(まさにアンチ・ビルドゥングスの骨頂とも言える概念ですね)なので、最近そこが否定されてしまうものだから(自己満足はダメという。そう言うことを言う人はたいてい自分のやることの何に対しても満足出来ていないのは自明の理である。自分で自分の満足を否定する人が、満足することなど出来るものか)、何もかもが崩壊して言っているのでしょうね。
好きだ!だからやりたいんだ!
これだけで本当は良いんですよ。
サッカーが最近どうしてここまで人気があるかというと、サッカーというスポーツは恐らくもっともアマチュア(愛する人)でありながらプロ(稼ぐ人)であることが出来るスポーツだからなのだと思います。
本当に自己満足出来るものが出来るかどうか、やってみればいい。
見切りをつけるのは簡単でも、「ああ、これでもう良いや」というものは一生出来ない。
それは別に雪舟のようなスーパースターだけの話ではなく、全て芸術に関わってしまった不幸な幸せ者全てに与えられる軛だろう。(これをしてぼくの友人は芸術家ってのは一種のマゾであると言う発言に繋がる。間を抜かれるとただの変な人の発言であるのは言うまでもない。だがぼくはこれは大変言い得て妙だと思う。)
フィギュアにはそうしたものを感じる。
故に今の汚され方は、残念ですね。