わけあって調べていて気が付かされたこと。
能の作品が原作なのにハッピーエンドじゃない!
と言うかむしろぼくは「京鹿子娘道成寺」が能をもとした作品であったことを今日初めて知ったのですが。
題はあまりにも有名ですよね。歌舞伎の釣鐘が落ちるところは、歌舞伎を全く見たことが無い人で「そういえば歌舞伎にそういうシーンがある作品ってあるよね」と思うかも。
余談ですが最近だと「小早川伸木の恋」の主人公の一人妙子のモデルがこの娘道成寺の主人公である清姫だと、柴門ふみさんがビッグコミックの唐沢寿明との対談で言ってました。彼女の場合微妙にハッピーエンドで救われていて、その点非常に物足りない、と言うか結末的にロジカルでヨーロピアン。トレンドな人だから仕方ないのだけれど。
満開の桜の元、400年経った後でも浮かばれない清姫の一途な執念。咲き乱れる桜の元、艶やかに狂おしく舞う白拍子は、あの世にいけぬ清姫の、哀しくも美しく、救いの無き魂の顕在化。
そんな彼女が坊主さん達によって鐘から追い出される、と言う話なのですが。
こう書くと何か、血も涙も無い話ですね。ヨーロッパ人には好まれないそうです。彼らはロジックが勝つからねえ・・・人の心を傍観して「ああ」という芸当は日本人以外の民族にはなかなか出来ない。ヨーロッパ人はすぐに「なぜなんだ!」と言うから。
桜が美しく狂い咲くなか白拍子として人と思われぬさまで舞踊り、そしてかつての憧れの人との無理心中の象徴である道成寺の鐘を400年を過ぎた後も再びのっとり、しかしあっという間に妄執の源、彼女の一途な愛の終着点の象徴であり彼女にとっては復元されてはならなかった鐘から、彼女の妄執をかたどったオロチの姿で追われてしまう哀しさは、咲き乱れる桜のはかなさにも重なり、「ああ」と僕らに思わせる。
理屈ではない。それは美しく、そして哀しいひとつの魂の記憶。
「あはれ」の江戸時代文化を象徴するような作品なんですね。
桜のように美しく散れぬ清姫。その魂はどこに行く。