考えちゃいけないンだ、とよく先生方がおっしゃってましたが、分析し始めて初めてその理由を知りました。
和製の流れがめちゃくちゃ複雑なんですよね。
よく云うのが「モーツァルトで和声が完成した」ッって言葉ですが、正確にはベートーヴェンの間違いじゃないかと思うのです。モーツァルトの時代はまだ対位法がかなり残っていて、当然モーツァルト文字心の技法の中に凄く多くの対位法を取り入れていて、それが洗練されるに従ってオペラの中に出てくるような教科書のような和声が出てくるのですが、初期の歌曲を分析してみて「ウワー・・・分からん」という自体にちょくちょく出くわします。
いや、もう、対位法で考えれば良いのですが、頭がそれを諦めてくれないんですよね。対位法を対位法だから、と放っておくと、それを移調させるときに調性ごと対位法をずらさないといけないのですが、僕はそんなこと出来ないですハイ。諦めてブチブチ書いていけば良いンですけどね。
なぜ今移調の話になるかというと、モーツァルトの楽譜は「低声用」と書かれているものの多くが中声のレンジで書かれているからです。あのじだい、正確にはまだ中声が存在しなかったんですよね。低い声の人にやたら高い声も得意な人がいる、と言う認識くらいで、オペラを書く人が特定の個人に目をつけてその人専用に書いている打ちに、実は人間には中声と呼ばれる人がいる、と言う結論に達したのが19世紀なのです。
モーツァルトは18世紀の人です。だから彼の概念には中声がなかったのです。それが理由か知らないのですが、ペータースの中声用も、やたら低いのとやたら高いのがごっちゃになっています。ビックリなことに高いテクスチャーのものも、モーツァルトの場合歌える(これが理由でチェリーリア・バルトリというスーパースターは何でもかんでもそのまま歌っていたわけ)んですよね。中声の声の質、と言うものを彼自身が求めていなかった事がその理由の一つだと思います。
何はともあれ。
こーんなに有名な人の歌曲を、よくもまあこれだけ無視してきたものだな、と。いわゆるフォークソング、同じ旋律をひたすら別の言葉で繰り返すものが多いのですが、モーツァルトが拾った題材とその人生を重ね合わせると、凄まじい美青年像が出来てしまい誤解するのが非常に面白い。
今や相当な変人であったことは分かっているのですが、その変人が選んだ詩人は何とも哲学的でロマンに満ちていて、ステキな感性をしていたのだと改めて見直してしまいました。
いえ、そもそも変人だったという情報が余計だったわけですが。
神聖化する必要はないのですが、それ以前にその人のセンスを一切知らないままその辺人生を語る近年の傾向も(マンガの性なんですが)いかがなものか、と思うのです。
そう考えるとシューベルトもシューマンも稀代の女たらしで二人とも恐らく梅毒で死んでいる(梅毒は死ぬ2,3年前の症状が万にも渡ると言う程多岐にわたる病気なので、公表されている病気からみて、あまりにも病状が複数過ぎるから梅毒認定ってだけなのですが)、彼らの場合なぜかそういう所は強調されないんですよね。やっぱりあれか、モーツァルトがスーパースター過ぎて彼らの存在が霞んでいるんでしょうね。
この一ヶ月程シューベルトとシューマンのペータース版の歌曲の分析をやってて、予定より遙かに早く終えてしまって、こりゃモーツァルトや他のドイツの作曲家もガンガン見なくちゃいけないと思うようになってやってみているわけですが。
それぞれ癖があって面白いですねえ・・・そしてモーツァルトの多くの曲が歌えなかった理由が、単に音楽を感じる事が出来てなかったという(イヤー、分析して初めて知ったんですけど、複雑な曲は現代曲並に複雑なんですね。それで居て凄く自然。当時の人達が歯がみした理由がよく分かる)情けない理由だったことを、認めますよええ。
特にフランス語の歌。有名なのは二曲しかなくてそのうちの一曲が伴奏弾いてもらってやっと歌えるようになった、と言う記憶があったのですが、そりゃこれだけ転調しててそれを頭で理解してなければ、音程は狂いっぱなしだよ!と思ってしまいましたよ。臨時記号の意味が理解出来ないって、そりゃ何調を歌っているのか理解出来てなきゃ理解できる訳ないだろ、と。
こう言う話を音楽家とすると、よく云われます。お前、そんなことを公表して恥ずかしくないのか、と。
恥ずかしくないです。イタリアで散々ピアニストに言われた事ですが、知らなくても彼らに任せていれば歌えるんですから。あげく、僕らには彼らに口出しできることがない。多くの条件において、ピアニストの方が歌手よりも上である部分は多い。
ただ、知ってた方が歌えるようになるまでの時間が遙かに短い。そして読めれば自分の意見も伝えやすい。当然ですが、読めた方がよい。
僕は結局何事についても人に教わることが出来なかった。それはかつての僕の不能だ。認めよう。だからと言って、教わることが出来るようになった今、教えることもできるようになりつつある。そして、過去の自分がどうであるかを認めることに恥も何も無い。むしろ、認めないと先になど進めないだろう。
話をモーツァルトに戻すと。
なるほど、元々ピアノをやってた人達じゃないと自信もって歌えなかったわけだ。いや、僕がアレルギーを持ってなくて根気よく音を読んで覚える力があったらやっぱり歌えたんだけどね。
まあいいさ。今は読めるのだから。
分析し始めたからこそハッキリと言えます。私のように中途半端な理解しかない人間は、モーツァルトの曲を歌う秘訣は、「まる覚え」と「無思考」です。機能について、せめてそのドライブ感を感じていないと歌えないシューマンやシューベルトと違い、モーツァルトの場合、考えれば考える程おかしくなるでしょう。
美しすぎる数式は留まることを知らず、それゆえに意図的に手を加えると容易に爆発を起こすのです。曲に任せて居れば全部勝手にやってくれるのです。
まあ、それが分かっていれば構造を理解しておいた方が良いに決まっていますけどね。様式美を体に叩き込んでいれば、邪な「こういうふうに聞かせたい!という」欲が消えるはず。
モーツァルトは古典派ですからね。
何を小学生でも理解している奴は理解している事を今更、だって?
何度でも言います。
Meglio tardi che mai.
メーリョ・タールディ・ケ・マーイ。
遅くとも、来ないよりはマシだぜ。