これねえ・・・
今日ここまで読んだ作品をひっぱりだして無理やり感想を書いたのは、やっぱりこの作品に対する不満からではなかろうか。
そもそも解説を書いている人がこの作品の主人公が搭屋米花、と書いている時点でチンプンカンプンである。この作品の主人公がいるとすれば間違いなく日記の書き手、しかも筆者と同性の杉井であろう。
加古夫人に関しては、完全に彼がよくやる失敗(と言うか、ここまできたら勘違いと言うべきではなかろうか。彼の中ではこうした女性の中途半端な心理描写と未完結は作品の中の風合いを整えるための道具としてしか僕には写らない。)により、宙に浮いたまま終わることになる。
人生に終わりは無い、と言えば聞こえはいいのだろうが、最後にポケットに親不知駅の切符をしまいこめた杉井と比べ、どこに向かっているのかが茫漠としすぎているのは納得しかねる。
この後「草原の椅子」を書いているあたり、彼の中でこの時代いろんなものが未消化だったことがうかがわれる。しょうがなかったのか。阪神大震災で家を失った直後だもの。
結局米花、と言うキャラクターに対して「通り過ぎた嵐」と言うイメージが僕には一番しっくり来る。
それに対して「穢れ」と言う言葉を使ったのは、あの時代のありとあらゆるものに対する宮本輝の中の「怒り」がよく表れている。
いずれにせよ、こうした「幻想の中の女性のその後」を描くのは辛い。彼の中の「落胆」が見え隠れするのは気のせいではないだろう。たとえそれが直接体験ではないにしても。いや、それが直接体験ではないが故になおさら。
「草原の椅子」を先に読んでおいてよかったなあ、と思いました。その後筆者がしっかり立ち直っていることを確かめているから、と言うのもひとつの理由。あの作品において、彼の目は「かつての絶世の美女」からどこにでもいそうなしかし「かわいい人」に目が転じているのもひとつ。
手が届かないものに憤ることほど不毛なことは無いと思う。少なくとも、幸せにはならない。しかも、その手が届かなかった存在のその後を克明に書き出すあたり、なにに対しての怒りなのかがさっぱり判らない。
いずれにせよ、過去は時々振り返ってみてよいものである。それは未来への切符のようなものではないか。