おおお・・・NHKの「プロフェッショナル~仕事の流儀」に取り上げられていましたね。
自分の専門に近いものを見せられると、「あ、実際はこんな短い時間ではその人を表現することはできないんだな」と言うことがよく分かる。
彼を見ていつも思うのは、彼は言葉の表現が日本語だとすごく下手なのに、フランス語ではすばらしい表現をしますよね。英語やイタリア語はまあ、普通。ドイツ語は聞いたことが無い。やっぱりフランス語ですね。イタリア語やフランス語は言葉自体に音楽的な響きがある。それをうまく生かした指揮だと思います。
日本語で椿姫の一場面を茂木さんに説明していて思ったのは、「ああ、こりゃ茂木さんこのオペラのこの旋律の場面を全く知らないんだな」と言うことです。
「それは普遍的な解釈なのですか?それともあなたのオリジナルですか?」と来たもんだ。求められる音は普遍的だがそれを要求するときに使う言葉は個々人で違って当たり前なのですよ?そして、演奏者が違うごとに新しいヴィオレッタが恋に生き、恋に死ぬのです。
椿姫の「私を愛して、アルフレード」のくだりは、最後ヴィオレッタが結核で死ぬ寸前に息も絶え絶えに訴えかける場面。その下降進行の旋律にディミヌエンドがかかっているのを「手に入らない」という表現はすごく音楽家的。専門でない人には理解しづらいと思う。
イメージとしては、アルフレードに抱きつくヴィオレッタの、その手に、その腕に、力が入らないから、愛するものは手に入らずに、その指先からすり抜けるのです。音楽家でない人に説明するためには、そこまで説明しないとダメ。
前に広島で高校の指導をなさっていたときに聞いたときも同じ様な感想を抱いたことがあります。時間をかけるとすごく色々伝えることができる、またそれがすごく面白いのですが、短時間で「分かっていない人たち」に説明するのは下手。
下手とは違うか。つまり、原田宗徳の小説みたいな感じで、すごく説明が「省かれて」いるんです。で、省きすぎているからみんな場面が分からなくなる。「え?いつの間に移動したの?」と前のページをめくったらたった3行で場面が転換しているときがある。源氏物語を読んでいるのとも同じ感じですね。頑張って読んでいても、何を言っているのかわからないときがある。
この「省く」美学は日本人そのものである。
もっとも、音楽家の場合その「説明を省いた部分」を音で埋めていくのですが。彼はいわゆるピアニストではないので、ピアノで素人を説得できないんだよねえ・・・日本人は「音の説明のためのピアノ」「オーケストラの解釈そのもののピアノ」を身の回りで一度も聞いていないんだよね。みんな「ピアニストのピアノ」の音しか聞いたことが無いの。
つまり、茂木さんは大野さんのピアノを聴いて自分の中に浮かんできた言葉と大野さんの言葉の間のズレを口にしたのだけれど、それ以前に茂木さんは楽譜を読んでいないからその音を説明する言葉をそもそも持たない。それは「解釈」ではなくただの「感想」なのです。
あれだよね。楽譜の解説を感想文と勘違いしている人は世の中に腐るほどいる。
「え?全然手から離れていく、という風には聞こえないんだけど、それってあなたの妄想?」みたいな雰囲気がすごくありましたよ?あれは非常に失礼だったのだけど、あとでわかったのかなあ・・・微妙。ちなみに普段の仕事で演奏者が彼の説明に引っかかったときに出る言葉は?「あなたのその言葉は何を意味しているのですか?」が正解。そうでなくては前に進みません。
料理をする人が料理をするときに使う言葉と同じ言葉はその料理を食べた人からは決して出てこない。それは「調理」する側と食べて「感想」を言う側の対立。料理人とお客さんの立場とはいえ、その作る料理を食べてもらわないで料理の仕方だけ説明されてお客さんの腹が膨れるわけもない。それと同じ。
彼は指揮者だ。指揮者は音そのものを体現しない。すべては演奏者にゆだねられる。
茂木さんは「音そのもの」を出す人と話すつもりだったから、話がかみ合わなかった。大野さんが途中でいみじくも言ったように、指揮者とは「無いようである存在」である。口の悪い音楽家は「いるとむかつくけどいないと困る」とも言う。こういわれているようではダメなんですけどね。
何故このような言われ方をするかというと、指揮者自身は一音も発しないからなんですよね。だから、彼の演奏から彼自身を見ようとするのは無理があるんです。少なくとも日本の皆さんが期待するようなすばらしいピアノを彼は弾かない。だって、指揮にそんなもの全く必要ないのだもの。
この際茂木さんが大野さんの解釈に口を挟みたかったら、自分で楽譜を読むしかないのです。だって、残念ながら、大野さんは「コレペティトーレ」(オペラ伴奏者の総称)では決してないのだから。彼にとってピアノは、プロフェッショナルと語り合うための道具に過ぎない。
この「楽譜を読む」と言うことが哲学的だと思っている人が日本はまだまだ多い。実際はすごく即物的なのにね。
この辺がね、彼が日本で活躍できない理由なんだよねえ・・・専門でやっていれば彼の言葉とあのピアノで、充分すぎるほどわかるんですけど。
まあ、専門でない人達と話をするのは後20年先でいいのではないのでしょうか。それはつまり日本に戻るのもまだ先、という話にもなる。日本が彼の指揮を理解するようになるのは、もうちょっと先のことだと思う。
結局のところ、「説明されたことを理解できないで質問するのが失礼ではない」という文化が無いのが、今のところ最大の問題点に思われる。聞くのを恥ずかしがっていては解釈を共有するのは難しい。有名な指揮者ならCDを聞けばある程度ほしい音は分かる。結局のところ日本がこの30年くりかえしてきたクラシックの歴史はそこに尽きる。日本のオケが新しい解釈に乏しい、と言われてもそれは当然のことともいえるんですよね。
「自分の思っていることを相手に質問できますか?」と言うところに結局のところ前進する鍵がある。話し合いのない夫婦はよほど相性がよくない限りうまく行かないのと一緒です・・・あ、でも、そうでもないかなあ・・・話さないことによって時間で癒して解決しようとするのは日本の文化だものね。「沈黙は金」とは誰が言ったか。
この辺、やっぱり彼は今ヨーロッパに生きていて、日本人は日本に生きている、と言うところに行き着くのかもしれない。精神文化は音楽文化に直結して反映しますからね。
今はヨーロッパで一線で活躍し続けていほしいですね。よくやっているなあ、といつも感心しています。頑張って、スカラでも振りまくってほしいです。
うはあ、すげえ長文。自分で読み直して、ちょっとうんざり。でも、専門がかぶっている個人に言及しているのだから、誤解は無いようにしたかったので。ここまで付き合ったかた、申し訳ございませんでした。