以前(といってもぼくが大学生の頃ですね。もう10年近く前の話なのか。)東京で知り合いになったここに勤めている人たち(まあつまりいろんな国の外国人なのですが)の面々を見て、こりゃあ当たりハズレが大きいネ、とは思っていました。
聞いたらわりとちゃんとしている人のほうが給料低かったりして、一体全体どういう査定になっているのかとも思ったのですが、あれは今考えてみると日本式に長くやっている人のほうが給料高かったんでしょう。
これから語学学校はつぶれる傾向にあるんでしょうね。
そもそも教える事を純粋に商売にするという考えがおかしい、という事に立ち戻らないといけないんだと思う。全員が全員同じ事やってうまく行くはず無いんです。
ほとんど先生としての訓練を受けていない人と1対1でおしゃべりしたからといって会話が上手くなるはず無いじゃないですか。その方法でうまく行くのは一つ屋根の下に住んだときだけです。年がら年中顔つき合わせているといやなことも言わなくてはいけなくなるので必然的に会話が上手くなる。
だって、日本人が日本語を喋れると言い切れる点は「言わなくてはいけないけど言いにくい事を相手に伝えてさらに相手に納得してもらう」ということじゃないですか?それって、会話としてはちっとも美しくないんですよ。でも、これが一番大事なことなんです。
いやでもこれから日本の文化は成熟期に入る。人口が一定して経済が頭打ちになって初めて文化は成熟する準備段階に入る。それはありとあらゆる国の世界史が繰り返してきたパターン。結局のところぼくらが世界史を勉強する意味の一つに、こうした事を受け入れ先取りする意識を持つ、という目的があると思う。
そうした文化の成熟期に入りつつある日本において、中途半端な学校に対してお客さんがNOといい始めても、それはちっとも不思議なことじゃない。だから最近日本には小さな優れた語学学校がたくさんでき始めていて、そこにみんなが行くようになってきている。これもかつて人類が体験してきたことだと思う。教わるからにはみんな上手くなりたいのだ。
人間にとって新しいことなど、実際存在しないのだろう。あるとすれば、ひとりひとり、それぞれの中にそれはある。
それはともかく。
おしゃれに喋る外国語。そんなもの、存在しない。言葉は所詮道具だ。おしゃべりが楽しいのは、話している相手が好きだからだ。
NOVAの限界はそこにあると、彼らが学校を始めたときから思っています。
これからどうなるかまでは知りませんけどね。さっさと学校解体するか、経営方針を変えたほうが良いのではないでしょうか。このままの流れで行くと、コムスンと同じことになると思われます。