怒り狂っているのを見ると、まるで自分の身内のケンカを見ているようだ。
「しょうがない」発言は今に始まったことではない。黒澤明監督の最後の作品「夢」においてリチャード・ギアに謝られたおばあちゃんが似たような受け答えをしている。あれは偽らざる真実であり、つまり「起きてしまったことは取り返しがつかないことであり、それを子孫の代で言い争うこと自体意味が無いことだ」という黒澤さんのメッセージであったのだと思う。彼はそうしたメッセージを自らの遺作に残すほどに、この問題が今後日本において遺恨を残すことを予見していたのだろう。
もっともこの3人、リアルタイムで現場にいた人たちである。実際の体験をしている彼らに対してぼくの方から口を挟むのは非常に難しい。ぼくからすれば父親達が同じことに関してケンカしているようなものなので、本当に困ったものである。
つまり原爆の話はフェアリーテールにするにはまだ早かったのだ。実際に体験した人たちがいなくなってから初めて「しょうがなかった」という言葉も受け入れられるかもしれない。僕自身はこの年になっても原爆を「しょうがなかった」という言葉に置き換えることが出来た被爆者達の気持ちはよく分からない。そうした人たちは、あまりにも身近にいるものだ。誰がそれだとは決して口には出さないけれども。
実際のところは、怒る人もいれば、しょうがないとあきらめる人もいた。それで良いんじゃないかと思う。人の気持ちに国の統一した見解は出せない。
せめて、久間さんは「あくまで一私人として」という言葉を付け加えるべきだったと思います。一大臣としての発言だというのならば、それはやはり危険思想だと言わざるを得ない。
何が言いたいかというと、撤回というのも何か違うなあ、と。あなたが一人の人間としてそう思ったこと自体は、間違いでないと思うのです。人に同意を求め無い限り。