あー、接続法?とか呼ばれているやつ?実際の会話ってほとんどこれでやるんだよね。大学の先生は口をそろえて「使わない」といったりするやつ。まあ、確かに英語の仮定法は、If があまりにも強い意味を持っているから必要ないんだけど。
イタリア語で言うと条件法、という文法ですが。
皆さん、イタリア語では条件法を使えない人って「バカな人」とされるから、しっかり学んでくださいね?イタリア人の会話は95パーセントは条件法。人に物を頼むときですら条件法。使えるようになってください。
書きたかったのはこんなことじゃなくて。
まあ、必要に迫られて大学2年のときに使っていた通称「緑本」(Okada Asao, Eijiro Iwasaki とある。Schulgrammatik fur Studenten 日本語題なし。あえて訳すなら学生のための学校文法。すごい含みのあるタイトルだと思いません?学校文法)を取り出したのです。
開くと。
なぜかそのとき横に座っていた面々が思い出されました。ちょっと泣けます。
何が良かったって、語学を勉強するのがテストのためで、しゃべられなくてはいけないという条件がないこと。
・・・不思議なことをいうやつ、と思うかもしれませんが。
ぼくみたいに普段実際に語学がつかえないとまずい状況に常に追い込まれている人間としては、何て気楽な時代だったんだろう、と思わざるをえないのですよ。しかもちゃんと勉強したことは覚えているし。あのときの先生の顔まで覚えている。檜山先生は元気にしてらっしゃるだろうか。今度訪ねてみよう。
まあ、しゃべり言葉ってものすごく大雑把に言うと、文法なんかどうでも良いんだよね。でも、間違え続けながらしゃべる自分が悲しいと思ったのはイタリア生活3年目。なんというか、自分が周りより劣ったものに思えて。
後、ドイツリートはやっぱりしゃべることが出来ないと無理。数がこなせないもの。20曲ぐらいじゃ話にならない。
ちなみに教科書としては、例文に唖然と出来て楽しいです。何でこんな重たい文ばかりが例文なのだろう。ドイツのポップな若者たちとのギャップに鼻血が出そうだ。なんというか、古きよき時代なり。
でも、あの授業は思い出すと数少ない意味のある授業だったと思う。いや、授業自体は本当にやる気がなくて素敵だったのだけど。この「緑本」を使って授業してくれた、という事実だけですべてペイできるほど。結局ぼくが大学を出てあの時代のものの中で唯一無くさなかったものだし。
あ、一般教養の話ですよ?音楽系は・・・あー、でも、全部自分で買った楽譜だ。むしろいつの間にかぼくの家に来ていた楽譜とかもあるし。
ともかく。
初心忘るべからず。実践的であろうが学術的であろうが、研究は研究なのです。
それでは。