つまりなんで解けないか考えるときに、数字で考えないで図形で考えるんですよね。で、「同じ解き方」というよりはむしろ「同じ絵」が描けるように努力する。
同じような絵が掛けないと言うことはつまり、論理的にその絵を書くときの数字の入れ方が間違っているのであり、逆に言うと数字の入れ方が正しければ必ず同じ絵になる、ということだ。
あー、数学的には「逆」ではないですが気にしないように。これはあれだ、日本語のあやだ。
95×103を絵で描けなくて約40分間唸っておりました。
そうだよなあ・・・100を導き出さなければならないことを頭に浮かべておれば、すぐに同じ性質の絵に辿り着けたはずなんだよなあ・・・
それにしても95×103と言う計算がこれほどのドラマを持っているとは知りませんでしたね。電卓使ったり筆算したら、決して味わうことが出来ない世界。
方程式に当てはめて答えを求め、間違っていたらすぐに答えを丸写しにしていた僕がなぜ数学の成績が悪かったのか、その理由が分かりました。
自分で解く喜びを全く味わっていなかったからなのですね。
繰り返しになるが、95×103という計算に、「解く喜び」が存在するとは、恐るべし、インド数学。
数字は数えるものではなく、図形として描かれるもの。
多分、ここらへんの概念が深くコンピューターと関係しているのでしょうね。
「数字で世界を表せる」と言う言葉の意味が少し判った気がします。
あれはヨーロッパ人の言葉ではなく、インド人の言葉だったのだ。
それだけでも、衝撃の事実。
今まで驕りの言葉だと思っていたものが、いくばくかのためらいとともに発せられるひとつの挑戦の言葉に聞こえる。
「世界を数字で表してみたい」
それはひとつの願望であり、祈りの言葉。
インドには宗教はなく、数学と哲学が存在する、というのも頷けます。
今更ながらにひとつの言葉の意味の多面性に驚きを禁じえないですね。
そして、インド人は驚かない。
道理で日本はITで大きくインドに水をあけられているわけです。
喜びとともに数字を語れ。