昔僕が通っていた学校の校長が朝礼の時に毎年一回言っていた言葉。
外国人の校長でもあり、何を言っているんだろうこの人は、と以前は失礼にも思っていたものですが、最近「ああ、本当に考えがまとまったならしゃべらないといけないことってそんなには無いんだよね」と言うところに行く自分を発見したりしています。
ほら、星野さんとか、麻生さんとか、小泉容疑者とか。
しゃべって何かができる、また自分にとっても相手にとっても利益につながることを発言するのはとても大事なことです。
しかし、その逆はいけません。しゃべって自分が傷ついて他人も傷つくと言うのならば、その人がしゃべる理由はいったい何なのか。
筋違い。
自分の中の情緒としてリンクしていることが、必ずしも事実関係を把握した上での発言でないのは、議論することを避け続けた日本社会のデフォルトですね。
アイデアは頭の中にあるのだろう。でもそのアイデアは、傷つくことを恐れるあまり人と意見を交わしたのちに熟成されたものではなく、10代の子供のころから自分と言う聖域の中に温められ続けたセンチメンタルの世界。
それが突然外側に出たとき、それが大人の社会で整合性を持たないとしても、それを果たして世間様のせいにすることができるかと言うと、やっぱり、違うんだなあ・・・
もちろん、彼らの言いたいことを好意的に解釈することもできるし、事あるごとにより彼らの言いたかったであろう言葉に近づけることはできると思う。
でも、少なくとも人の上に立つ人間、もしくは重大な事件を起こす人間が自分をきちんと説明できないことは、やはり社会的には許されないことのように思われます。
野球人と政治家と犯罪者。
一見お互いに全く関係がないように見えながら、やっぱりみんなきっちり今の時代を生きていて、自分と社会の間におきる軋轢に苦しんでいる。
同時代性、と言う奴は面白いですね。
議論すると言うことは、反駁のスペースを相手に与えること。
「僕の意見はこう。あなたの意見は?」
田母神さんの時もそうでしたが、凝り固まっている人間には、なかなかどうしてそうした「許し」はできないもので、ただそうした人が人の上に立つのは、システム上は成り立つけれどやっぱり困ったもんなんだなあ。
誰も「こうだ」と断言することを求めているわけではないのですが。
自分の言葉を説明できることは、上に立つ人間、何かを起こす人にはやはりどうしても求められる。
「問題は選手」「あなたが気分を害したのなら謝る」「恨みがあるのは保健所」
どれもこれも、少なくとも2回は繰り返された言葉。
3回目は、さすがに受け付ける人は少ないかもしれない。
だって、そんなの、友達だって、ねえ?
筋違いの意見をわずかな期間で3回も許すのは、結構勇気が要るよね。
その人が正気であるか、もはやそれすら疑わしくなってくるから。
だから黙れとは言わない。特に、上に立つ者に。
ただ、発言する前に考えてほしいな、と言う願望は、最近多くの有名人にありますね。
・・・人のこと、あまり言えないけれどね?
結局、ひとことひとことを考えて、脳内で修正するしかないのだけれど。
「さよう、少し目につきましたのは、亜米利加(あめりか)では、政府でも民間でも、およそ人の上に立つ者は、みなその地位相応に怜悧(れいり)(利口)でございます。この点ばかりは全く我が国と反対のように思いまする」
この勝海舟の言葉が現代において通用していると感じるのは、やはり今が「その時」に近づいているからなのか。
賢くなることを恐れるな。
結局、国際社会に日本が生き残るブレークスルーはここにしかないと僕は思います。
それとも鎖国でもするつもりか。
したければ、少なくとも人口を7千万人減らさないといけないということを彼が分かっているとは信じがたいですね。
徒党をまとめあげるためだけなのならば、別に彼でなくても良かったと思います。
ああ、眠すぎてまとまらない。でも、久しぶりに書いたのでこのまま残します。
お休みー。