ひ弱な上にコメントが辛辣、というか相も変わらず傍若無人なんですねえ・・・
思うに、彼女たちぐらいのレベルに研ぎ澄まされていたら後ろに人がいることぐらい分かるはずだし、「相手がよけてくれるだろう」などと甘い考えを持っていたのだとしたらプロ失格である。プロは基本的に「自分の周りの人間は自分の動きを予測できないだろう」と言う推測のもとに動かないといけない。
ましてや問題のシーンは後ろから村主が迫っている音は安藤には聞こえていたはずであり、村主としてもまさかあそこからジャンプするとは思っていなかっただろう。むしろ良く体をよじってよけたのであり、むろん自分の前に向かって倒れた村主がノーダメージなのも、後ろに向かって予測できない形でこけた安藤が大ダメージなのも当たり前であ〈見えない方と見える方なら見える方がよけるべきだと言う考え方は完全に道路のマナーに違反していることは誰でもすぐに分かることだ)り、しかし安藤はどう考えてもあそこで飛ぼうとしたのはその傍若無人ぷりをよくあらわしており、彼女はトリノ五輪当初から人間的にはなにも成長できていないことが良く分かる。
変わったことと言えば「80パーセントの力で滑ればそこそこ勝てる」ことを自覚したことであり、それにしてもエキシビジョンに怪我を押して出たと言いながらまったくジャンプせず、それを誤るあたり明らかに村主に対する当てこすりであり、ここまで来ると演技中にもはや右手が自然に振り回すことが出来ない彼女が選手として限界であるという説に賛同したくなる欲望に勝てなくなってくる。
そんなこと言ったら村主だって3年前に足首を痛めた時点でもうアカン、と個人的に思っていたので(自分もリハビリグッズをいろいろと知るようになり「足首の怪我はレベルによるがある程度は克服できます」と断言するようになった。
しかし安藤の右肩の脱臼癖はスケート特有の高速スピンの連発には耐えられないようだ、と言うシーンは今まで何度も見ているので〈一昨日だってSPのスパイラルシークエンスで必要がないところで右肩を抑えていた。フジテレビの安藤の理プレーもそのシーンばかりであり、鑑みるにフジの中では彼女の評価は完全に二分していると思う。)、千代の富士は筋肉で固めて脱臼しない体を作り上げたけれど、筋肉を決してつけることが出来ないスケートではもう無理なんじゃないですか、と改めて思った。
それでも続けると言うのだから。これ以上見苦しいものを見せたくないのなら。
タフになれ。
結局現代日本を生き抜く最大のキーワードって、これなんだと思うよ?
小説家で一貫してそのことに言及しているのは、日本においては村上春樹ぐらいだろう。
これだけでも彼は評価されるに値する。
それぐらいのことは、評論家の方々も、認めてほしい、ですねえ。なにも「感じれない」のだとしても。僕に言わせればそれはその人の感じる能力にも依ると思うし、感じたくないと思えば感じないようにすることは日本人はすごく得意なことも知っている。
でも、字になっている記号(この場合「タフ」という単語ですね。村上春樹の作品ではしょっちゅう出てくる言葉です)を拾い集めただけでも、そこには無視できない共通性がある。外国人が彼の作品にひかれる理由の一つがそこなんだよね。
彼らは裏など読んでいない。外国文学の裏など、たいていの場合読めるものではないのだ。
ノーベル文学賞と言う名の賞の最大の特徴はここに起因する。文章が「感じさせてくれる」ことなど、一片の価値も見出さない。ただ単純に言葉と言う記号が意味をもって構成されていることを評価する。それがノーベル賞。
ミシェル・フーコーぐらい読め、と思う。
記号としての言葉の意味について、考えるきっかけぐらいにはなってくれるでしょう。
やな話だが、安藤はこの「記号としての言葉」を無意識に(むしろ意識的に、と言う意見に個人的には賛成したいところです)巧みに利用して、自分を優位に立たせようとする癖はもはや疑いようのないことですね。
何が「村主さんにごめんなさいと言いたい」ですか。
ここにおける記号は、もはや言葉の意味を離れて道具となっている「ごめんなさい」という言葉。レストランにおけるウェイトレスの「申し訳ありません少々お待ちください」と同じ性格を帯びる。心などこもっていなくても、心がこもっているようにそれが発音されればよい。状況が正しければほとんどの場合そうした言葉は額面通り受け取られざるを得ないものである。彼女はそれを良く理解している。
だからこそ。
思ってもいないことを言うと、おじさんも気持ち悪いよ?
いっそのこと自分のことだけ率直に言う村主は、大人になったな、と思う。
いずれにせよ、フィギュアスケートは最近気色悪い。あれを見て、また一連のコメントを読んで、日本中の若い男の子が女の子のことを得体のしれない生き物と見始めはしないか。
でも、3年前気色悪かった村主の発言が今は良いものと感じられる以上、人間の成長の可能性を否定するのはもっと良くないと言うのも事実なのだが、安藤はあと1年で本当に修正できるのか。もう一回ぐらい失敗しないと分からないのではないか。個人的にはそう見える。
ああ、難しいね。
とりあえず、一昨日と昨日の安藤の村主や自分の演技に関する発言は非常に良くない。
それだけは、はっきり言えますね。
言い訳は、してはいけない。
苦しいですが、それが現実なんだと思います。