一般市民しかいなかったそうだ。学校の所在地はイスラエルに提供されていたが、いつものノリで戦闘したらこのような結果が待っていたわけだ。
イスラエルにいるユダヤ人は大きく分けて二つのタイプに分かれるそうだ。ちなみにこのことを話してくれた友達は、「戦争マニアとは口も利かない」と言っていた。つまり、軍には自分たちを守ってもらうのが当然とはいえ、彼らの軍事行動が行き過ぎる話はよく耳にし、それでも彼らを止めるのは難しい、というのが現状なんだそうだ。
世界中、軍隊ってそういうものだと思う。
ふつう、戦闘地で学校を破壊してもニュースにはならないのだが、壊してしまったのが国連の建物だったと言うこの非常に特異なケース。イスラエルとしても間違いなく初めてのケースだと思います。僕は今までこんな話聞いたことがない。ガザ地区は非常に珍しい地域であり(一応自治区だが欧米に半分テロ組織と認識されているハマスが事実上治安を守り、その中で60を超える学校が国連によって経営されていた。もしかしてこういう地域、ほかにもあるんですかね?僕が知らないだけかもしれない。)、30年前では起きえなかった事態が起きたのではないかと思います。
これで無意味な破壊行為はある程度止まると思われますが、結局のところ怪しいそぶりを見せた人は誰かれ構わずテロリスト扱いなのが現状なので、特に学校のような建物が沈黙を守っていたら、そこを通る兵士が耐えきれなくなって砲撃をしてしまう、ということは想像しうる光景です。
やっぱり、地上侵攻を決意させた停戦条約失効一日前のハマスのロケット弾がすべてだったように思われます。あれで、イスラエルに残っていた最後の良心が地面に叩きつけられた。あれが一日あとだったら、問題はここまで深刻化しなかった。日本人には馬鹿げているように聞こえるかもしれないが、それが彼らの契約に対する考え方。5000年以上、変わっていない。
前にも何度か書いたが、特にユダヤ人にとって契約は神の前で行う神聖な儀式です。この点、イスラム教ははるかに文明にそぐう契約概念をもっているため(?)、割と平気で契約を破棄しますが、ユダヤにおいては正式な契約を行うには、必ず最低限でも親指の血を必要とするぐらい(早い話が血を裏切るものには死を、という意味なんだよね。この習慣は建国前のアメリカには脈々と残っていた。だからアメリカでは割と最近まで「血判」が行われていたわけ)ですから、それを違えた以上責任は相手にある、という大義名分を与えてしまったのは、痛恨の極みであったとしか言いようがない。
覆水盆に返らず。
ガザ地区がイスラエル軍によって占領されるまでは作戦は絶対に終わらないのももはや分かり切っていることですが、問題はそのあと速やかに話は進まないだろう、ということ。10年単位の問題に発展するでしょう。
日本の新聞は、せめてユダヤ人が全体としては「世界がすべて敵に回ることをすでに体験していて、そのこと自体に恐れは無い、むしろそれは戦中と何も変わらない」という自暴自棄な自我形成をどこかに秘めていることを考慮に入れて文を書いてほしいと思う。
破壊衝動。
むろん、そうした狂気はどこの国の国民にもあるのだけれど。
ヨーロッパが腫物を触るように対処しているのが、どうして分からないかなあ・・・自分たちが過去にしたことへの償いとか、そういったものがないまぜになって今の中途半端なゴーサインが出ている。歴史はおそらく語られているうちに原形を留めないものとなり、「何がなされるべきなのか」明確な意思がそこに現れないようになってきているのだろう。
すべての先進国にそれは言えたことかも知れないけれど。
今一度、あの人と話したいと思う。それが叶わぬことと知りながら。これしか答えは無かったのか。
「消される恐怖」を国民全体で味わってしまった彼ら。それでも、だからこそあの地に国を築いた。そしてもうあの地を離れるぐらいなら、あの地の塵となりたい。あの地は自分が育った土地だから。
すべての問いにすべての答え。何が正しいとか間違っているとか、そういうレベルで動いていない。彼らと友人としてしゃべれば、それはすぐに分かること。
これも一種の悟りなのか。
こうするしか、無い。
僕のなけなしの経験上、人がこういう思考に追い込まれるときに良いことはまず起こらない。だから、あの時僕は彼女の言葉を不吉だと感じた。今なら分かる。
ユダヤ人の側から見ると出口がないことをいやというほど聞かされたが故に、僕には「停戦しろ!」とただ叫んでいる人たちが「本当に彼らを見ているのだろうか」と思う一方、停戦してくれるのならばそれが一番望ましいとも思っている自分がいて、本当に訳が分からない。
問題は、国連の学校が襲撃されたから間違い、と言うほど単純ではない。
たぶん記事書いている人たちも半信半疑で書いているのだろうけれど。
このイスラエル建国以来出口のない問い。
あるべきか、あらざるべきか、それが問題なのだ。
シェークスピアは時代を予感していた。まさに天才と言える。
それが問題の端を発している以上、白か黒でしか行けないようだ。
何が彼らをそこまで追い詰めたかは世界中が知っているが故に、話はかつてなくややこしいのです。
600万人もの自分たちのおじいさんおばあさんが、工場でミンチにされ、合わせて1000万人もの同朋が無抵抗で虐殺された。こんな比較は意味がないかもしれないが、戦争当事国の日本は兵士の死者数が230万人、民間人が88万人。(民間人は沖縄、広島、長崎だけで半数超えるのか。これは知らなかった。)
無抵抗の民間人がこれだけの数虐殺されたのは、(中国の民間人の死者が戦時中で1000万人となっている。ただ、これは占領中の国土の荒廃における生存確率の低下が大きく起因している。にしてもあの国が日本を語るときによく怒るのはこの事実だけでも当たり前と言える。)やっぱりどう差し引いても歴史上類を見ないことだ。
彼らは今でもそのことを語る。それは何も正当化しないだろうが、強い決意をその人の中に生むには十分すぎて余りある。
彼女がかつて言った言葉。
自分の土地に帰り自分の伴侶の子を産み、そこに骨を埋める。それが私の願いだ、と。
それはまるで祈りのようなものだ。
彼女は彼女の戦いを、かの地でしているのだろう。内側から平和を願う気持ちがなければ、停戦などいくらしても無駄なことだろうから。
ただ、戦争当事者が宗教を火種に戦っている以上、それらの祈りが土地を浄化しきれない。
その事実が、やるせない。
せめて、彼女が無事で居ますようにと、祈ることしかできない。
あるべきか、あらざるべきか。
それは、本当に問題なのだ。
ただ、彼女に「在って」欲しい。
それだけは、間違いない。