出生数自体は増えてないじゃん。
適齢期と言う言葉が死んだ今、丙午を気にする人も少ない。
おもしろいのが、舛添さんは出生率が上がっていることを威張っているらしい。
ずれてるよね。彼が政治家の家系に生まれた人間だったら、あのような発言は決してしないだろう。局所的に見えている数字に対する成果主義は、もはや過去のものになりつつある。
インビジブル・アセット(見えない資産)がどうとか、そういう問題じゃないですよ、念のため。
ただ、学者肌であるが為に逆に目の前が見えないと言うこともあるのだなあ、と思いました。
・・・グラフ見たら「出生数は増えてないじゃん!」とすぐ分かるはずなんだけどね。自分が見えたい部分は濃く見えて、自分が見たくないものは大声で目の前で言われていても気が付かないんだろうね。
社会における格差が増えて、それでいて教育に力を注がないと子供に未来がないのに、国が子供の教育を補助しないのならば、お金を持たない人は子供を持つと言う選択肢を捨てるというのは、実はとても「教養がいる」決断なんです。
だから日本人が子供を産まないようにしているのは実は日本人がとても賢いことの証拠みたいなものなんだよな。国もほめてあげればよいのに、と思うよ。
ただ、個人の視点ではそれで良くても、社会はそれじゃ成り立たない。だから教育に国が全力を注ぐ以外、ブレークスルーが無い、と言う意見に関しては僕はかれこれ5年以上変わらないね。
Q :返さなくちゃいけない奨学金と、借金の違いを述べよ。
A :利率が奨学金の方が低い、特定の勤め先を選べば勤続年数に応じて額が減っていく。
このメリットの低さはすごいと思う。この状況で良い大学に入らないと良い就職が無いなどと言われて、絶望しないのは元々お金を持っている人だけだ。
ここで国の論理として「だったらお金を稼げ」と言っているのですが、それが稼げなくなっているから子供が少なくなっているんですよ。もう、分かりきっているんですけどね。
財源がない。
それを言うのが癪なのは分かりますが、このまま無い無いと言い続けていたら、この国は立ちゆかなくなる。あの資本主義の権化のように扱われているアメリカにおいてすら、日本よりは子供一人の教育に国がお金をかけている。(もっともあの国も、ちっとも足りていないようだが。とりあえずモデルはフランスだよね)
ま、前にも書いたと思うけれど、たぶんあと10年ぐらいこの問題は解決されないで、本当にまずいと気が付いた時にはもう遅いけれど改革します、と言うことになるんでしょうね。その頃には年金は破綻しているでしょう。
そうでない未来?うーん、何かが壊れないと動かないのが日本のデフォルトだからねえ・・・
その10年後に期待してとりあえず子供を作っておく、と言うのが今の若い夫婦に勧めることだけれどね。未来がどうなるか計算に入れて家族を作るなんて、今の時代多くの人にとって難しいね。(その前に相手探せよ、と言う突っ込みが多方面から聞こえてきてますが、この際無視します)
子供を育てる(つまり不本意ながら英語で言えばgrow)、と言うことと子供を教育する(すなわちeducate)、と言うことは実はあまり関係のないことだから。
おそらく儒教の考え方なんだよね、育てるすなわち学ばせる、というのは。
ところが僕らが移行した西洋型近代社会において、教育は成績に直結ものであるため、本質として「育てる」ことと切り離されている。
おもしろいというか、僕ら日本人はシステムとしてこれについて行っているはずなのだが、実際の市民社会の実感覚においてこの考え方はむしろ異質である。これはおそらく「ことわざ」や「金言」の多くが儒教と結びついたものが多いことからきているものであり(あいだみつをとか、ものすごく儒教っぽい)、明治維新からかれこれ140年以上やっている西洋型教育は結局未だ持って本質的には根付いて無いのだろう。むしろ明治時代だけ成立していた幻想なのかもしれない。(この辺は坂の上の雲を読んでくれれば、空気がよく分かると思います)
しかし、事態はすでにうやむやにしておいてはどちらにも行けないところまで来ている。
愛を注げば子供は育つ。愛を注いでも子供は教育できない。(むしろ愛を必要以上に注いだばっかりに、すくすく育ったけれど勉強できない、というのは良くあるパターンです。僕はそれで良いと思うけどね。)
国がこの事実を認めてくれれば、もっと話はスムーズになっていくんですが。
こういう抽象論をテストで高い点数を取ってきた人たちは嫌うらしいんだな。何ら具体的でないものは筆記で点数にならないから、彼らがこうした問答に答えを出せないのは当然の帰結なのだけれど。
舛添さん見ていると、それがよく分かります。
でもまあ、それも彼だけのせいでもないよな。
無駄な一言がなければ、彼には何も悪いところも無いのです。
ただ、その一言は、大きい。
余談かもしれないが、「仮定の話」にマスコミが入るのは越権行為だ。そんな権限がマスコミにあるのならば、国民は国会議員を選ぶ理由が無くなってしまう。麻生さんが最近マスコミに対して怒っているのはそれが理由です。怖いのは、国民がその恐ろしさを理解していないことですね。
マスコミには、何が決定してなにが行われるかを簡潔に納得するように説明すれば、それでよい。
かといって、ほとんど無意味な手柄に胸を張ってマスコミにしゃべるのもどうかと思う。
「政治家の言葉は金言」という言葉に意味があるとすれば、オオカミ少年こそ先に罰せられるべきなんだけれど、今はマスコミも含めてほぼ全員オオカミ少年なので、その矛盾に誰もが堪えられなくなっているんだ。
たとえそれが自分の手柄だとしても、人に譲れよ?
多分、それだけが、この国が生き残っていく道だと思うよ?
それじゃ、大学で生き残れないのかもしれないけどね?(実はこれはこれで今の日本の多くの大学がデッドエンドに向かって直滑降している理由の一つなのですが、そんな話はまた今度。)でも、そこは大学ではなくて、内閣なのだから。
それで残れないような場所ならば、残る必要もない。
大臣だったら、それぐらいの覚悟が欲しいね。
格だが品性だか知らないが、日本人の美徳は、そういう潔さと心意気にあると、僕は思います。
今の国会には、武士の魂を持った人が少ない。
誤解を恐れずに言えば、そういうことだろうね。
目先しか見えていない。
いかにも、今の大学に勤めている人の一つの典型。当たり前ですが、全員がそうだったら、大学制度自体が危ういですね。だからそんなことはない。(これは信じるしかないことです。信じるのが嫌だったら大学に関わらないことですね。)
人を「あいつはオオカミ少年だ!」と決めつけるのも流行しているようなので、それが分かったからと言って何も止まらないのも事実なのですが、麻生さんと違い(彼は不用意ではあるがオオカミ少年ではない)、この舛添さんの発言はオオカミ少年的だよね。
何も来ていないのなら、何か来ているなどと言わないでください。
一言でまとめるならそれだけです。
(最初からそう書けよと言われても、それじゃ僕が言いたいことは言い表せない。だから、テレビに出る人たちはそうしたリスクを理解していないか、していてそのやるせなさにマゾヒスティックに悶絶しているのだろうか、とか最近思います。バカのふりする以外生き残る道なんかあるのか、あの世界。あ、これ、今日の本文と全然関係ないなあ・・・)
多分、これまででブログでは最長。最後までつきあってくれた人、本当にありがとう。
もっとおもしろいもの書けるようにがんばります(?)