“There are three kinds of lies. lies, damned lies, and statistics” 「嘘には3種類ある。嘘、とんでもない嘘、そして統計である」(ベンジャミン・ディズレーリ)
今まで知らなかったんですが、この台詞って超有名なものらしいですね。
ちなみにこのベンジャミン・ディズレーリはイギリスの首相となった人です。ヨーロッパ激動の時代の人で、ビスマルクとてを組んでロシアの南下を防いだ、と言えば世界史を筆記で受けた人なら「ああ、あの人」ぐらいに思い出せるぐらいの人らしいですね。
世界史の教科書に載る人間はたいていの場合その時代の「紹介すべき人の中から選ばれた選りすぐり」ですから、当時としては超重要人物ですね。ビスマルクと「手を組んだ」という史実からしてどれぐらい重要かはすぐ分かるのですが。
ちなみにdamnedと言う言葉の訳は本当に困りますよね。彼がこの台詞を言ったのは話し言葉であり、敢えてこの言葉に訳をつけるとしたらどう考えても「くそったれの」が正しいのですが、本などに載せる場合やはりそう言う表現は避けないといけないので、「とんでもない」という訳が一般的なようです。
最近この言葉が頭から離れてくれないのは、最近の政治がこの「統計」を気にしすぎているからなんだと思います。
統計というものは切り口をかえるといくらでも数字が変わってくるものです。
たとえば「小沢さんを支持するか支持しないか」というアンケート(彼は首相でもなんでもないのでそもそも支持も何もないと思うのですが)をしたらまあ今の時点では多くの人が「支持しない」になっちゃうと思う。
それでは質問を変えて「日本の新人議員の発言権をイギリスのそれと同じにすることをどう思うか。具体的には彼らの国会での持ち時間はないものとする事の是非を問う」というアンケートをしたらみんな「???」となっちゃうと思う。
僕は小沢さんが何を言ったのかを一秒も調べていないのであり(そして今後も調べることはない。おそらくそれは彼を含めて国会議員さん達が思っている「国民の姿」そのものだと思う。「あるべき姿」じゃなくて、あくまで「ありのまま」ね。)、新聞の見出しが小沢さんが新人議員に国会での発言を差し控えるように申し入れたなどと書いているのを見て、「うーん、そう書いたらまるで言論の自由を奪ってるみたいだなあ、それはひどい」と瞬間的には思ったのですが、後で考えてみるとそんなバカな事はいくら何でも国会議員が言うはずもなく、彼がイギリスびいきであることは何となく聞いたことがあるので「じゃあこういう事か」ぐらいで書いております。念のため。
つまり、彼が1ヶ月前にした発言って、そう言う意味ではなかったのかね?新聞ではその後何も言っていないので、基本的に新聞を斜め読みしかしない我々「残り8割以上」の国民には、小沢さんの悪い印象だけが残っている。
そう、アンケートって、シンプルでなければ答えてもらえないものなんだよね。
ディズレーリが「統計なんて嘘八百」と言い切った事の裏付けは、こんなところなんだろうね。
大学の論文を書くためのアンケートではないが故に、新聞社がやるアンケートは「現政権を支持するか」、その理由を「選択肢より一つ選べ」という質のものしか作れない。
大体「政権を支持するか否か」という統計の意味が分からない。完全にフィーリングの話であり、「政権と私はつきあっているんですか?」とまじめに質問すべきところだと思う。大抵の国会議員は真顔で「その通りだよ」と答えるだろうからそこが気持ち悪くてしょうがないところだが。
だがディズレーリのころからどうやらこの手の統計はほとんど変わっていないらしく、だから今の政治家の人達はディズレーリのごとく「世の中には3つの嘘があってね・・・」と口を酸っぱくして言う権利はやっぱり残っているのではないかと思う。
それを言うべき一番の人であるはずの鳩山さんが「支持率見て考えます」とか言っているんだからねえ…財務相も、予算案を出してその行方を見ずに健康理由で辞任って…間違っていると言われようが、自分がした仕事の責任は墓場まで背負っていくから政治家は偉いのであって(まあ確かに、大平さんみたいに実際に死なれると後味悪すぎますが)、それでもそれはテストの点数がどう、と言うレベルの話ではない。
ああ、そうか。
最近の偉い政治家さん達は、大臣になることをテストの延長線上で捉えているのか・・・
歴史的に上り詰めた地位としては、この人達がビスマルクとさほど変わりない位置にいると言う事が、歴史を勉強している最中だと「うーん、何がこの違いを生んでいるのだろう」と考えちゃうね。
大体政治家が何をなしたかを決めるのは後世の歴史家であって、その当時の国民じゃないと言うことを理解した上で政治家になっているはずなのにねえ…(違うの?)
少なくとも統計から学ぶよりは、歴史から学んだ方が賢いだろう。
経験から学ぶことが歴史から学ぶことよりも愚であるかは、自分の一生に何を求めるかによって違ってくるだろうが。おそらく彼自身、「経験から学ぶものは愚者、歴史から学ぶものは賢者」と言うために血を吐くような思いをしているはずである。
歴史を人より先に語る者が愛を得るのは難しかろう。(自分で言ってて自分の耳が痛い)
それでも戦わなければ生き残れないから出た言葉ではないか。
ちなみに最近現在の状況を明治維新と似たように捉えようとしている動きは多いが(ああ、そう言えばディズレーリは明治維新のころの人です)、どちらかというと現政権は刷新する側よりも刷新される側のように見えるのだが、どうしてなのだろう?
国民は新しい人達を選んだはずなのに、その発想はむしろ昔のものだ。
今後もう何回か、見た目としては激しい揺り返しがこの国の政治の世界であるのだろうね。(困ったことに中でやっている人達は結構落ち着いているんだ。そして中身も実際のところあまり変わらないのではないか。明治維新は「やらねばやられる」という思いが国民を一つにしたが、今の日本にはそう言う要素が無いと言って良い。実際にはあるのかも知れないが、国民がそう思う要素が無いと言う事ね。最近自分が焦るのが本当にあほらしくて、そんな今日もWiiフィットプラスで腹式呼吸。何を焦っていたのか忘れてしまいます。)
昨日の「辞任&就任劇」が結局なんなのか、ネットで読んでもテレビで見ても、いっこうによく分からなかった僕は、それでも特に内側を知ることなく外側から感想を述べ続けます。(説明されると余計分からなくなるんだよねえ…多分それぞれがそれぞれに主張があるからだろう。100の意見はゼロの意見に等しい。大学の論文と一緒。役に立つのを掘り出すだけで大抵の人の一生が終わる。ブログでも書いている方がよほど社会に有益である。)
それは言ってみれば海の上の小舟に乗りながら海の様子を述べているようなものであって、それをしている人間が荒波にもまれても助かるわけじゃない。
それに対して歴史は空の星みたいなものだと思う。
自分がそれを活用できる事はほとんどないですが、政治家さん達は見た方が良いんじゃないのかね?
聖徳太子のころから「かの国に比べて我が国は…」とばかり言っているのが自分も含めて日本人なんですが、そう言っている我々が、その「かの国の歴史」から目をそらすのも、妙な話だと思うのです。
とりあえず僕は支持率なんてかっぱえびせんみたいなものだと思う。
無くても良いけど、手に取るのを止められない。
かっぱえびせんを止めないと太るけど(BMI22を6ヶ月後なんて夢のような話です。)、支持率を見るのを止めないと?
新聞の記事に煽られる。
多分、そう言うことだろう。
さあ、今日も太陽礼拝。
お休み-。