これまでほとんど使ってこなかったので、自分に足りない要素がほぼこれだけだったのでは、と思ってしまう今日この頃です。練習は今までと基本的に同じはずなんですが、メトロノームが入っただけで色々劇的に変わりましたね。
前から分かってはいたことだったのですが、ドイツリートはやたら後にも先にも子音が多いので、何も考えずに発音しているとどんどんリズムが狂っていきます。しかしことばのリズムは一つに詩に関してある程度以上一定を保っているので、何も考えずにただそのことばを読んでいると、大抵の場合むしろそのリズムに邪魔されるようになります。
もちろん、手を叩いてリズムを取りながら読んでいく、と言う手もあり、実際にそういう訓練の仕方をしている人もいないわけではないでしょうが、一人出やっているときの労力を考えるとやはりメトロノームを採用するのが良いと思います。
考えて見るとメトロノームってドイツではやたら使われるイメージがある。イタリアでは使っている人を見たことが無い。オーケストラなどを見ると、イタリア人はやたら旋律を「歌う」癖があるのに対して、ドイツはかっちりと弾く人が多い。オケの完成度は・・・これは聞いている人の主観にもよると思う。でも世界的に評価が高いのは圧倒的にドイツの方。やはりレパートリーが多い、と言う所がいちばんでしょうか。
メトロノームを使うと、かなり眠くて調子がでない、と言うときでもテンポを下げればついていけるようになり、そうやって練習したものが必ず自分の中で肥やしになるのがもっとも良いことなんですよね。
歌の旋律がスピードアップしないのには実は明確な理由があって、歌っている方がそれぞれの歌詞をきっちりと「捉えない」と前に進めないのです。これは別に意味をしっかり調べておけ、と言う意味では無く、歌詞というものは大抵とても単純な言葉で書かれているものであり、それ故にその言葉の効果を見逃しがちである、と言う事を意識しないと行けない、と言う事です。
どうと言う事のない言葉の連続が重なって降り積もっていくと意味が出てくる訳ですから、それぞれの言葉を読み飛ばすような真似をしていると、いくら良い声で歌っても何を言っているのか、日本語でも伝わらないわけです。
逆に、子供が歌っていて発声が拙くても、いや、それほど声の良くないポップス歌手が歌っていても、何か良いものを聞いている、と言う気分になるときは、それぞれの歌詞の意味を、歌手自身がきっちりと捉えていて、声を聞かせることが主体ではない曲である、と言う可能性が高い。
これは技術でもありますが、ゆっくりのテンポから、歌詞を捉えた、と思った所から徐々にスピードを上げていく、さながら忍者が高く飛ぶために、木を植えてその成長していく中を飛び越える練習を日々繰り返すようなものでしょうか。
どんな難しい旋律でも、3倍の長さ(つまりメトロノームは3分の1のスピード)から初めてゆっくりと音を確かめて、それを徐々に徐々に上げていくと言う作業を繰り返せば、どの楽器でも最終的には欲しい速さ、欲しい表現に追いつくのは、超絶技巧の曲じゃない限り大丈夫なはずです。
いわゆる天才、と呼ばれる人達はこういう過程をすっ飛ばしてしまう事が多いのですが、僕はこのゆっくり始めて徐々に早くしていき、最終的に目標に到達するという一般的なアプローチ、結局どの先生も最終的に辿り着く万人が味わえる練習法が、人生を豊かにする可能性は高いと思うようになりました。
やってみれば分かるのですが、「出来ない自分」が「出来る自分」に変わると言う達成感は、その人の中に自信をつけます。そうした自分を他人と比べると、大抵悲しいのです。ドルトムントの監督だったクロップさんが、同じようなことを言ってましたね。
自分達は最高だった、そのことにだけ、思いを馳せよう。他人と比べると、いつも悲しい事になる、と。
これは人生を幸せにするための、共通のアプローチではないかと思います。
音楽は競争ではないのです。英語では良く達成(アチーヴメント)という言葉を使いますが、それぞれの中で達成が起こって始めて音楽であり、いきなり出来てしまったらそれは達成にならないので、それはそれでなんのために音楽をやるのか苦しんでしまう可能性すらあります。
歌ですら、已に歌えていると思っている曲でも、メトロノームを使ってじっくりと歌詞をよんでみると、そこにはいろんな可能性が眠っていて、自分が見逃していたことを痛感させられます。
むろん、最終的に音楽を演奏するときにはそこにはメトロノームは存在しませんが、「自分の中の音に耳を傾ける」為には、メトロノームという補助道具が凄く役に立つと思います。
何より、「自分が何を達成できて、何を達成できてないかハッキリと判断出来る」ゆえに、そのことを反省することがあったとしても、それによって眠れない、と言う事が起こらないようになりました。
ありとあらゆる作品で否定される傾向にあるメトロノームですが(アニメの「響け!ユーフォニアム」という作品で、小説の中でメトロノームを使っているシーンなのに、それをカットしていたのは衝撃的でした。プロでは確かに使いませんが、高校生相手には使わないわけにはいかないんですけどね?ソロパートならいざ知らず、合奏パートをソロのように弾かせるオーディションなど、この世には存在しません)、実際には天才でもない人間が西洋音楽を楽しむ上で、これ以上にない助けになる補助道具なのです。
よく「メトロノームのような演奏」と揶揄されますが、では実際にメトロノームと同じテンポで演奏出来る人間がいるかというと、やっぱりそれは居ないのですよ。それはモノトーンになっているか、ぎすぎすしているか、いずれにせよ本当の意味でテンポ通りに弾けてはいないのです。
アッレーグロは「元気よく」アッレグレットは「元気なようでどこか空ろに」アッレーグロ・ヴィヴァーチェは「興奮しているように」とそれぞれの言葉にニュアンスがあります。こうした言葉はテンポを指定すると同時に曲想を説明にしているのです。そして書いてある音をそのままテンポ通りで弾けるようになると、耳と耳の間に音楽が出来上がってきます。
それこそが音楽の楽しみなわけです。それは、ゆっくりとしたテンポから徐々に思うところまで行けたなら、誰の頭の中にでも起こる事なのです。音楽において本当に素晴らしい瞬間は、その「達成感」の積み重ねが人の音楽と交わったときに起こります。歌い飛ばしていてもその瞬間は来ないのです。
つまり、音楽そのものは、合奏をせずともすでにその人一人の頭の中に已に起こっている事であり、しかしその音楽が他人のものとふれあうと、更に素晴らしいものになる、そう言う事です。
メトロノームは、そうした他人の音楽と自分の音楽をドッキングさせる、最高の補助道具なのです。
・・・確かに、こうやって書くと、ピアニストがメトロノームと一緒に孤独になってしまう可能性があるのかも、と思わなくはないですね。やろうと思えば一人で全部説明できてしまう楽器ですから。だから僕はピアニストに歌を歌うことを勧めます。うまくなくて良いんです。声楽的にレベルが高くなくても良いのです。人と合わせないと完成しようがない楽器であればなんでも良いとすら言えます。メトロノームは人と合わせるために使う、僕らの合い言葉のようなものなのです。
なんにせよ。
音楽が最初からあって、そこにテンポで嵌めていくわけじゃないんですよね。それは全て、耳と耳の間に起こる事なのです。
それを起こすためには、3倍のテンポからゆっくりと、そこから一段一段早くしていって。
非常に地味な時間ですが、凡人たる自分のような人間にとって、なかなかこれ以上の楽しみがあるのだろうか、と個人的には思っています。
この練習方法なら一日30分からでも、結構うまくなると思います。
ぶっちゃけ、ヤマハの練習方法の応用と捉えてもらっても構いませんが、BGMが無くてもメトロノームだけでも充分行けちゃうし、そもそもヤマハだってBGMに載せるために結局3倍のテンポから練習するんですよね。で、BGMに載せられる頃には無しでも弾けるようになってたり。ただ、繰り返し練習することに飽きない用にするために、ああやって「他人が何をそこに絡めてきているか」を常に聞かされるのはかなり有効なのだな、と今さらのように感心しています。合奏する自分のイメージが、全く合奏をする機会がない人でもある程度はもてるようになりますからね。喩えそこに呼吸がないにしても。
・・・ではなぜこの年になるまで僕がメトロノームを拒否していたか?それは、常にイライラしていて、メトロノームに合わせる余裕が自分の中になかったから、と言う事なんですよね。
普通になる、と言う事が最高に難しかった自分が、今頃になって「ああ、これが普通か」とおもうようになりました。
この点に関しては、僕はグルテンフリーに、ジョコビッチに感謝するしかないですね。僕がアトピーやらぜんそくやら疱疹状皮膚炎やら不眠やら逆流性食道炎やら倦怠感やらドライアイやら貧血やら目眩やら下痢やら膝の関節炎やら(書き出してみるとつい二ヶ月前までに悩まされていたものがものすごく多いですね・・・これで全部じゃないんですよ?不定愁訴とはよく云いますが、まさにそれですな・・・・)いろんな物に悩まされているとき、こんな事を考えることすらありませんでしたからね。この3年程ほとんどブログを書けなくなっていたのもそれが理由だし。
常に前向きに。ただ、自分が勉強してきたことは大切に。
やる事は同じ。捉え方は「全く違う」。それをしっかり意識して。
練習したら興奮して眠れなくなるというあなた。
メトロノームを使ってみてはいかがでしょうか?
こういう世間的に「バカみたい」と思われていることに、意外とヒントはあるものですよね。万人にとっての答えなど、この世にはないのです。