事実上、イタリアサッカー代表の最後のファンタジスタはロベルト・バッジョだった。
その後継者とみなされていたデルピエロは3年ほど前自分からインタビューで「僕はファンタジスタではない」と言っているし、トッティにいたっては理路整然とした発言は一回もしていないものの、代表において自分のプレースタイルを変化させることを常に求められていてかつそれについていっているとは言い難い現状がある。
ファンタジスタ、と言う言葉が生まれた国ですらこのような現状なのに、なぜ今、極東の日本でファンタジスタ、と言う言葉にこだわるのか。
確かに中村俊輔はセルティクスにおいてはファンタジスタだ。しかし日本代表において彼はファンタジスタではない。
なぜならファンタジスタ、とは一人でゲームを動かせる選手のことを言い、フランスにおけるジダンが恐らく僕らの見た最後の国の代表のファンタジスタなのだ。
ドイツが終わってジダンが去った。司令塔、と言う言葉はもはや色あせている。一人の選手がゲームメークをしていては決して勝つことができない。ポジションチェンジは当然の義務である。ロナウジーニョを見ればよく分かる。彼一人では何もできなかった。子供のように相手にパスをして点を取られて終わり。
中田選手が追いついていけなかったことがあったとすれば、このことに他ならない。彼は司令塔、ゲームメークと言う言葉にこだわっていて、かつその形を踏襲するには時代が遅すぎた。
川淵さんが中田選手を擁護したかった気持ちも分かる。サッカーファンにとってやっぱりバッジョやジダンやマラドーナはいつの時代だって神様だ。
ただ、ファンタジスタ、と言う言葉にこだわっているとこれからの国際サッカーで勝つのは難しくなるだろう。「あいつがいればどうにかなる」時代は終わった。
イギリスだって3連勝と言ったって、「弱小国」のひとつであるはずのマケドニア相手に「救世主クラウチ」のおかげで1対0だ。こんなことたった5年前には考えることすら馬鹿らしいことだった。鼻で笑っていたに違いない。
夢、とか理想、とか、結局文の世界にとどめるぐらいがちょうど良いのだろう。バッジョもジダンも若かったときは異端児だった。それがたまたま時代の寵児になったとして、彼らは自分たちの限界もよく分かっている。だからジダンはユニフォームを脱いだ。
これ以上踊らされるのに疲れたのだ。
彼の最後のマテラッツィへのヘディングは、ファンタジスタ、と言う言葉にピリオドを打った。ブラッターの悲しみは、きっと純粋なサッカーファンすべての悲しみだ。もっとも偉大な選手が、自らの選手生活の墓標をあのような形で刻んだことが、たまたまサッカーにおけるファイナルファンタジーだった。
時代の流れを感じますね。