3歳児。もう、自分の名前もお父さんの名前も言える。予想通り、慈恵病院は孤児院の真似事をする運命にあるようだ。
想定外、とか笑わせるよね。余裕で想定範囲内でしょう。今後10歳ぐらいの子供まではつれてこられてもなんら不思議じゃないですね。
そもそもこの国の孤児院が「施設」という名前に置き換えられていたのにはわけがある。厳密な審査の元「親元を離れて生活するしか選択肢の無い」子達と、「単にもう育てるのに疲れたから開放されたいから捨てられる」子達には、結果的には同じ運命が待っていたとしても、受け入れる側、受け入れられる側の気持ちが全く違う。
「孤児院」とすると後者の子供が押し寄せてくるのが目に見えていたから「日本には孤児院なんて甘い制度は無いですよ」と最初から釘をさしていたのだ。
ヨーロッパで孤児院が存在するのは圧倒的なキリスト教の組織力からである。捨てる方の親はそれこそ町中の人間が誰が捨てたかを知ることになるし、それが教会においてもきっちりと議論される。そりゃそうだ。ただあずければそれで終わり、なら孤児院はあっという間にパンクする。大都市ではさすがに、教会の前に子供を置き去りする人はいる。しかし、臓器売買のためにそのこたちをさらう人達は常に待ち構えている。善意も悪意もそこでは剥き出しだ。
結論だけならば、新生児から1歳までしか受け入れないのが正解と思われる。始めた人が善意に溢れているがゆえに、すべての子がかわいいのも分かるのだけれど。
それならば「孤児院」というカテゴリーを施設と分けて創るべきだ。施設は預ける方の身元がはっきりするのに対し、孤児院ではその義務が無い。しかし、この身元が無い、と言う事実は結局ところ赤ちゃんに重くのしかかることになる。
もちろん、答えはない。善意が続く限り、前進するだけだ。親が子を育てることを放棄する。この事実は狂っている。彼らはその親たちが狂っていることすら受け入れる。
これは間違いなく宗教的行為である。ただ、この宗教的行為が日本文化に当てはまるかは、20年先まで見ないと分からないでしょう。
ぼくは日本人ほど日本人として宗教的な民族もいないと思う。それゆえに、この文化が、受け入れられる可能性は低いのではなかろうか、と見ている。身元不詳の「神の授けた子」を社会が守る、という概念は、どこまでもカトリックであるがゆえに。
イタリアの格言「すべての子供は娼婦より生まれる」
これは決して女性差別の言葉ではなく、神の子イエス・キリスト以外のすべての存在は無垢なる物から生まれはしない、しかしその子が女性の内に宿されるときそれは神が授けたものである、という概念。
この概念に縛られるがゆえに、イタリアでは中絶は激しく拒否される。日本なら15分で済む「作業」が、ヨーロッパに行ったらイギリスやドイツまで行かないといけない。たとえそれがどのような形で宿されたものであろうと、宿されたからにはそれはすでに「神が授けた子」なのだ。いわば、子を宿したその瞬間に、女性は「神聖なる者」となるわけ。
その最たる例は、マグダラのマリア。マグダレーナですらマリアになる可能性はもっている。あくまでそれは、可能性。
ま、タッキーだったら「は?難しくてわけわかんない」と言うところで、それで生きられる彼は幸せだ。余談だが、昨日細木さんの番組の彼を見てそう思った。
日本人に本当の意味での無神論者は少ない。無神論者は街角の他人のゴミをゴミ箱に捨てたりはしない。「美しくあるべき社会」のイメージはすでにそれ自体が宗教的行為だ。汚い町を見て「汚い」と思うのは綺麗な街のイメージがあるからである。そのイメージがそもそも宗教的なものと繋がっている。「何故その方がきれいなのか」を突き詰めて考えると、実は自分個人の欲求からは離れていることに誰もが気がつくだろう。
分かりやすく言うと、そのごみを捨てなくても、ぼくの生活にはなんの問題もないのだ。なのに、捨てる。それはあるべき姿への憧れ。
一連の話の違和感の正体は所詮異文化の挿入が絡んで知るに過ぎない。日本には、身元の分からない子を認めて育てる文化など、無いのだ。
考えてみると、不思議なことだと思います。同じ生きてる命なのにね。
生まれてくる命には何の罪も無い。使い古された台詞をまたどこかで誰かが吐いている。そして、それはきっと間違っていない。