イタリアの話。
さて、問題になっている、女性教師がトイレのために授業中に立った学生に対して他の学生が「お前は同性愛者か?」とののしったことに対する罰として書かせた言葉ですが。
ちなみに恐らくこの「同性愛者」という言葉は homosessuale では無く gay だったと思われる。この区別は彼らによるとgayはつまりナルシスティックであり外見上はこぎれいな男であることを愛してやまない人の事をさすらしい。言われてみるとそうなのだが、言われたからと言ってだからどうした、と言いたくなる人がほとんどだ、と言うことも否めない。見慣れると何故彼らがこの違いにこだわるかは分かるのですが、大抵のそうでない人にはどうでも良いことですね。
ちなみにかの偉大なるミケランジェロも間違いなく gay であった。この時代では amore platonico つまりプラトニック・ラブ。ははー、言い方変わっても中身はあまり変わらないかもね。この場合の区別は学者によると「極度に文化的素養が高い人間に起こる愛の形」らしい。もうどうでも良いんですけど。
さて、お話を元に戻します。
io sono deficiente
たとえば彼女は言いました。
「コショウとって?」
「分かった」
おもむろにコショウのふたを開けた彼。彼女のお皿を自分の前に引き寄せた彼はいきなり力いっぱい30回コショウを振り掛けます。しばらく呆然と見ていた彼女。しかし彼女は冷静になって言います。
Ma sei deificiente?
はい。つまり「バカ」は誤訳です。正しい訳として「人でなし!」「この非常識!」あたりが適切と思われます。
基本的に人として当たり前のことが出来ない人を指して deficiente と呼びます。
この言葉を100回書くと、本当にその意味について考え始めると非常に哲学的ではなかろうかと思う。紀伊国屋広島店の児童書の手書きのポスター(というか張り紙)に「使ったものをしまうのは人としてあたりまえのこと」とでかでか書いてあるのだが、あなたそんなこと言ったら大抵の男の子の大学生の一人暮らしの部屋は「人として当たり前のことが出来ないひと」の部屋です。
まあつまり、人間ってその当たり前のことがすごく難しくなる時期があるのだ。100回も書いていたら実は誰もがどこか deficiente という事が分かるんじゃないか。
そこまで狙ったのかは知らないけどね?何でもかんでも訴えるのはダメだ、と言うのは近年のイタリアの傾向であり、この無罪は決して不当なものともいえない。
これが不当なら、日本の小学校の漢字の練習帖なんて全部不当さ。やればその良さも分かるでしょ?やらないで意味が無い、と決め付けるのは良くない。
けっしてJRの日勤教育と同質のものではないのです。あれはやる人に精神的貧しさを植えつけることはあっても、決して精神的豊かさは増えない。
・・・つまりこれがぼくの言いたかったことなんだけどね?
日本はスパルタ式なので、イタリアの御国事情が想像できないのが、この記事に対するコメント見ていると本当によく分かって、面白いんだよね。
イタリア人はすべて「放蕩息子の帰還」を自分の中で追体験するように生きているのですよ。良くも悪くもね。