イタリア語で「貧しきものの皿」と言う意味。
イタリア料理の基本は「どれだけ普通に自然に取れる食材だけで,特別なものを使わずにおいしい物を作れるか」なので、貧しい人たちの皿だからといって、使っているものは侮れません。
この言葉が日本で定着しないのは「それが貧しいんですか?」と聞き返したくなるふしがあるから。
でもね。
イタリア料理の基本に高級トリュフやフォアグラが置かれることはこれからもない。確かにトリュフは近年もてはやされてはいるものの、ひとかけらピンポン玉小で1000円をくだらない食材をパスタに振りかけろなんていえば、イタリア人の90パーセントは目を剥く。
日本は低所得者層が現在30パーセントに行くかと言ったところだが(このカウントも怪しいと言えば怪しいのだが。東京で月20万円を低所得者層に入れるのはさほど抵抗がないが、地方だとそうでもない。)イタリアは70パーセント以上がそう。スーパーマーケットで売られているものの値段は確かに日本の3分の1だが、収入が800ユーロを超えない人がほとんどの状況ではあまり救いにならない。
でもね、あの国の人たちが日本人よりも幸せそうなのは、苦しんでいる人たちの方が苦しんでいない人たちより明らかに多いから、と言うのもあるから人間と言う生き物は複雑だと言うことを思い知らされる。
話を戻すと。
最近、バターが広島に無いんですよ。
僕としては先進国を名乗っているこの国がバターを切らしていると言う事実は受け入れがたいのですが、誰も騒いでないのでつまりみんな家で料理にも使わなければお菓子も作らない、ということなんですよね?
こんな話、ファンタジーに出てくる無理な設定か(イギリスの子供向けのお話の設定にぴったりだよなあ・・・バターが市場に出回ってない、なんて)と思っていましたが、意外にも自分の身の回りに、普通に起こってますね。
で、この「貧しきものの皿」のひとつの「トマトのリゾット」を作るのに「バターが無い!」と絶叫している私はなんなのかと。
牛乳はやたら市場に出回っているのにねえ・・・乳製品はバターだけアウト。
何でだ?
とりあえず貧しい皿すら作れない自分の心が貧しくなりました。
お後がよろしく無いようで。