この言葉の後にすぐに「殺したかった」がすぐ浮かんだ人は間違いなく最近ニュースを見すぎです。
花見でも行って酒でも飲んでなさい。
成績優秀、東京の方にどうしても行きたかったが、資金が無くいけなくて、自分でお金をためないといけなくて、でもそのお金は無くて。
理解できないことがあるとすればなぜ「東京の大学」にどうしても行きたかったか、ですね。
大学なら地元でも岡山なら充分に良い大学がある。どうしても東京に行きたかった、家を出たかっただけなのなら、今は高卒なら探せば仕事が無いわけでもなかっただろう。もちろんその人生はハードに違いないが。
・・・まあ、確かにこうやって書いてみると、心の中に潜む「不公平感」は否めないよね。
遠くアルゼンチンの方に目をやれば、10代の頃から泥棒は当たり前、強盗だって殺人だって、そのぐらいの年から始めている子はたくさんいる。
こういうことが頻繁に起こる国の共通点は「抗えない社会の格差」がもはや人の手に負えないところまで来ているところ。
日本の格差はアルゼンチンほど目に見えない。
食べれない事はないし、服が無い、ということも無い。
ただ、実際問題、特に良く勉強した人たちに見られる傾向として「頑張った労力に見合うものが得られなかった」と言う不満はそこに垣間見られる。
うーむ。労力に見合った結果がでるのって、勉強の成果だけなんだよね。
それを使ってお金を稼ぐとなると、ぜんぜん自分が稼ぎたいと思っていなかったところで稼げたり、ここで稼ぎたいと思ったところでマイナスになったり。
ただ、日本の教育は教えるだけ教えておいて、その教えたことが外に出て役に立つという実感をあまり持たせてくれない。
たとえば、数字自体は役に立っているし、文字も役に立っている。
ただ、学校で習った国語や数学自体は実生活ではほとんど使ったことはない。
僕はそういうものだと割り切っているから問題はないが、割り切れない人は特に「勉強に時間をとられた」と感じている人には多いとは思う。
この子が18になるまで「とにかく勉強すればどうにかなる」と言う思いで良い成績をとることにこだわっていたとすれば、もしそれが明らかに状況として不可能だったとしても、自分の失敗を「人のせい」にしたくなったとしても、子供の心理とすれば充分にありうることなんでしょうね。
つまり、日本に生きている限りこうした事故に巻き込まれるのは天災に遭うのとちょっと似ている。
サリン事件も池袋連続殺傷事件も、この国においては日常の中に起きた天災のようなものだった。
僕だって、たまたまそこにいたとしたら恐らく防げなかっただろうし、やられていたと思うから。
これがマンガやゲームのせいかというと違うとは思うのだが、インターネットのせいかと聞かれれば、間接的にはそうかもね。
ここでのキーワードは「虚無感」だろう。
現代人の特に若い世代に「虚無感」が増えたのにインターネットが関係していないかと言うと、難しいところだ。インターネットは地球上の60億人と「薄く」繋がっているが、誰一人とも「濃く」繋がることは無い。
だからインターネットに関わるときには自分から世界を「創造する」努力が必要だ。インド人が作っているものだから、インド人の数学的美学すなわち「数字=イメージの実体化」を頭の中に浮かべることが出来ない人は、ここに居続けるのは辛いだろう。
数字と戦うことはあっても、数字に親しむと言う作業をほとんどしない日本の学校の数学がインターネットの世界でほとんど成果を残せないのは、そこに「創造したい世界」あるいは「未知への憧れ」を見出せないからなのだろうね。
「未知への憧れ」が無い人間は「孤独」というよりも「虚無感」にいたる。
僕としてはこの岡山の子からは「孤独」と言う文字は出て来ない。
ただ憧れを知るもののみが、私の苦しみ(=孤独)を知っている by ゲーテ
この精神構造は日本では恐らく高校生よりも小学生に起きやすい精神構造だ。
憧れがあるものは何よりもまずそれに向かって突き進んでしまう。それは「求める」と言う行為には繋がり、それが得られないときに「自己の消去」を臨む傾向にある。
死に至る病。
それに対して「虚無感」はいろんな不満からくる、世界に対して発せられる漠然とした世界観だ。
彼は恐らく感じたのだろう。この「空虚」が自分の住む世界を満たしていくことを。世界が空虚に満たされたとき、人の命は自分の命と同じぐらい「軽い」ものと感じられたのだろうね。
ごらん、世界はこんなにすばらしい。
そうした言葉を日本の学校の先生のうちの何人が子供たちに行って聞かせることが出来るだろうか。
これをしなくてはいけないから学校の先生は「聖職」なんです。
教えるほうも目が見えないのならば、つないでいる手は谷底にもあなたを引っ張るだろう。
だから「なんで?」なんて言わないで欲しいですね。すべてのことに目が見開いている人間など、この世には居ないのだから。
居るとすれば、それは神様だけでしょうね。
これが、インド人が「神様が居る」と言う結論に至った理由。
つまり、それは、人間じゃないから神様に、違いない。
最近「こんなことをする奴は人間じゃない」と言う発言を良く見るが、まあ、人間だからこういうことするんだよね。
いかなる形であれ、その人なりにこの世界の素晴らしさを感じさせる可能性。
・・・そういうものをすべての生徒のために学校に求めるのは、やっぱり、ムリだよね。
どうしたものか。