結局自分がもらったかどうかすら分からないお金で有罪にされちゃいましたね。落としどころといったところなんでしょうか。
どうも腑に落ちない判決でしたが、なんと言っても問題の渦中の人はすでにお亡くなりになられており、もはや何のための裁判かすら分からない。
最近、最高裁だからといって?な判決多いですね。でも、それは本当に裁判官のせいだけだろうか。
これからの日本は客観テストで見落とされているものを拾えるかどうかで、組織全体をレベルアップさせることが出来るかどうかが決まってくるように思われる。
そしてそれは、社長がどうすればどうなる、と言う話でもないような気がする。社長が何かすればどうにかなるのなら、少なくとも30パーセントの会社は当の昔にどうにかなっているはずである。
何かこう、神経が細かいところまで行き届いていない感じ。
僕は別に神経が行き届いていればより日本人らしいなどとは思いません。
しかし、やっぱり行き届いているほうが良い会社になると思うんだよね。残念なことに、これは数字には出ないし、教育といっても上司が片手間に出来るようなことでもないと思う。
「私の不徳の致す所でございます」
一時期流行った言葉ですけれど、よく考えてみるとこうした言葉を吐けるということは、やはりかなりきめ細かいところまで目が届いている証拠なんだよね、少なくとも最初にこの言葉を口にした人はそうだったに違いない。
考えてみると、レベルが落ちたのは特に裁判官でも被告でもなく、「主と客」ともに全体的にレベルが落ちたと見るべきでしょうか。
何か自分の身に悪いことがあったとして、それが全部自分のせいのわけもないし、ましてや全て相手のせいでもない。
ただ、全ての局面に気を配ってそれが起こらないようにお互いに努力することは出来たのではないか。それを自分がすること、それを相手がするように仕向けること。
それらが出来なかったことを総じて「私の不徳」と言う言葉に総括される。
実はこの高度な「落としどころ」は、全て昔からの考えを温故知新したに過ぎないのですが。
村岡さんの口から、残念ながらこのような言葉は聞かれなかった。つまり、主にも客にもいたらないところばかりで、なすべきなのになされなかったことが多すぎたと言うことか。人事を尽くさずに天命は待てない。下げれる頭も見つからないよね。
お互いに訴えあい、いがみ合い、その果ては一体どこに行くのだろう。
日本文化とは何か。
そろそろみんなでもう一回しっかり考えないといけないところまで来ているんじゃあ、無いのかな。
許せないものなど、無い。
いつか僕もそう言える日が来るのだろうか。
そんなわけで明日も掃除、掃除っと。
お休みー。