鈴木桂治を破って全日本で優勝したときに、高校、大学の先輩に勝って優勝したと言うだけの理由で祝勝会すら開いてもらえなかったのが発端だったそうだ。
こういうの聞くと「あー、だから今の柔道ってあんなしょぼいんだ?」と思います。
2002年の井上や2006年の鈴木の「そもそも畳の上に上がるコンディションを作れていなかった」というスポーツ選手失格の状況にもかかわらず、両者がそのまま現役を続行して周りがそれを応援していたのには僕は違和感を抱きました。でも、この話を聞いたら少しその理由がわかった気がします。
つまり、守られた王者たちだったんですね?
確かに石井の柔道は最低だった。あれは柔道じゃないと思う。
でも、国際大会でやっているルールにのっとってスポーツとして戦ったのは彼だけだったし、そういう意味では柔道関係者に全く助けてもらえなかったわけだから「私が勝てたのはみなさんの応援のおかげではなく私の実力」という言葉が出てきたのも、「これまで私は柔道関係の人達から辛酸をなめさせられていたことは事実です」と言う風に受け取るのなら「まあ、君にはそれを言う権利は確かにあるかもね、言葉は拙いけれど」と今となっては思います。
マスコミも悪いのではないか。
大きな新聞で全日本優勝でも祝勝会が開かれなかった事実(こんなの石井マニアの人でもない限り知ることは決して無い話ですよ?)、これまでの確執をきちんと書いてくれていれば、あんな形で彼を放り出す柔道連盟がもはや末期状態であることを僕らもすぐに知ることができたのにね。
もっともそんな記事なくても、金取った選手と谷以外の全員の無様でみじめで話にもならない戦いぶりを未だに覚えているので、日本の柔道は最大の危機を迎えていることは分かるんだけどね?
格闘技に年功序列は持ち込んじゃいけないんですよ。
ロス五輪の山下の場合、その人の技と体とその人となり(なんのことは無い、心技体なわけだが)に敬意が払われたからこそ相手は怪我した足を攻めなかったのであり、決して山下が日本で一番偉い柔道かだったからではない(少しはそういうのもあるだろうが)。実力的に見て相手を倒せると判断して石井がそれを倒したのだから、それに対する賞賛はやはり必要なのですよ。勝負とは正々堂々でなくてはならないのだから。
こう書いたら柔道やっている人たちからすれば、自分たちのやり方は自分たちなりに正々堂々だと思うのだろうけれど。あの時の鈴木桂治の心技体は、本当に充実していたか。
やっぱり、この、祝勝会すら開かない、というのは、どう贔屓目に見ても、違うなあ。
石井も言葉が拙かったが、たんに繊細だったからと思えば事情を知っていた(知らなかったというのなら、それこそ選手の管理をする気がなかったということ)柔道関係としては許せることもあったはずであり、大人の方が歩み寄らなかったのだから、これからのニッポン柔道は真っ暗闇なんだろうね、と思う。
石井に負けた時点で鈴木桂治を引退させなかったのは、今となっては完全に間違いだったと思う。
情で五輪代表を決めたら、世界では決して勝てない。
たぶん、4年後に大いにそのことを学ぶことになるでしょう。
つーか、今回の五輪、内柴と石井はそもそも強化としてノーカウント(内柴はギリギリまでランクは低い方、石井はお金はもらっていたが研究はすべて自前の方法だったと聞く)なので、強化対象Aランク選手としてメニューをこなした男子は勝利ゼロだったと見て良いんですよ。
それを認める人がいない現在、もうダメだな。
認めたほうが良いと思います。
ここで貝になっちゃうのは最近の~協会、~連盟のお約束。
上に立つ人の質が、本当に問われる時代になっていますね。
もっと執念を持って真実に迫らないと。
僕も反省します。