裁判官が理解しないのは、音楽家の言葉に対する記憶力。
音楽家は言葉自体を生み出さないが、一回リズムの良い言葉、心に響く言葉にどこかで出会うと、音楽を作っているうちに「非常に酷似したなにか」を音楽と同時に想起することが「非常によく」あるんです。
だから、「音楽の歌詞なんて言い始めたら全部盗用と言われてもしょうがないのよ松本さん」と槙原敬之が言い返していればこんな問題は起こらなかったのに、まさかの名誉毀損の裁判沙汰で、挙句門外漢の裁判官が天下の松本零士に損害賠償命令。
ここはいったいどこの国か。僕はこんな裁判を認めたくない。
ちょっとした行き違いは話し合いで済むものだ。それを自分にその言葉を「盗用した意識」がないと言うだけの理由で名誉毀損の損害賠償を起こすなど、結局自分の生み出す歌詞が根っこのところでどことつながっているか全く意識できておらずまるですべての言葉を自分で生み出したような錯覚に陥っているあたり、一流からはほど遠い。
いかに素晴らしい言葉の組み合わせも、そこに至るまでの己のインスピレーションは言葉と言う宝の山の組み合わせと糊づけに寄与しているにすぎない。〈とは言ってもそのインスピレーションを人は才能と呼ぶのであり、それは非常に重要な要素です。そこは間違えてはいけません。)
ましてやこれほどまでに言葉が似てしまったことは、間違いなく「誰かから聞いた言葉」から生まれているのであり、むしろその言葉を自分に囁いた人の名前を言えと言いたい。悪いがこれほどまでに近い作家同士の言葉がこれほどまでにシンクロするということは、槙原敬之がマンガを読んでいなかったとしても、「同じような言葉」を彼に囁いた人間は居るのだよ。
せめてゼロ円和解だろう。本当に、面白い判決だよね。
あり得ることとして、裁判官本人、もしくは親戚が槙原敬之のファンだった。うん?権利があるのなら裁判官とその親戚に槙原敬之のファンがいたかどうかは教えてほしいところだ。
同じ理屈でイキガミの訴訟も星新一の娘さんが負けたかも知れないことを考えると、芸術分野の喧嘩は決して裁判で争ってはいけないことだと言うことを改めて知る。
それは裁判で争われることではなく、己の良心に問うことだ。
本当に、自分一人でその言葉を思いついたのか?
言葉は天下の回りものだ。だから僕らは先人の編み出した言葉の流れに自分たちの工夫を加えて、現在を生きる人間にとって分かりやすい言葉に噛み砕いて音にのせる。その中に使われている言葉がある程度一致するのは当然の帰結。それが起こらない詩人の言葉は、長きにわたって人の心に響くことは無い。
ただ、ここまでの偶然の一致はとりあえず僕の知る限り起こらない。
松本さんの言葉は汚かったかも知れないが、それに裁判でやり返すという方法はアーティストとしては下の下だよ。
自分がした苦労を横取りされた、と言う気分を松本さんが持ってしまったとしても仕方がなかった今回の一件。
これだけでは終わらないでほしいね。
ホント、ありえないです。